第2章

 サイモンの大柄な体が、びくりと震えた。氷のような蒼い双眸が、私の顔に釘付けになる。

「……なんだと?」

 掠れた声。そこに、ほとんど気づけないほどの震えが混じっていた。

 私は手足をもつれさせながらベッド脇のサイドテーブルへ這い寄り、日記帳に挟んでいた紙を探り当てる。何度も触れたせいで、角の擦り切れた薄い一枚――検査結果の用紙。

「……自分で見て」

 それを彼の目の前へ突き出した瞬間、堪えきれなかった涙が手の甲に落ちた。

「サイモン、私、嘘なんかついてない! この手術をしたら、私、死んじゃう……!」

 サイモンの視線が、皺だらけの紙へ落ちる。受け取ろうと手を伸ばした、そのとき――

「……あ、ぁっ」

 切迫した悲鳴が走り、ライラーの身体がびくんと痙攣した。彼女はいきなり胸元を強く押さえ、膝が崩れる。糸の切れた人形みたいに、床へ真っ直ぐ倒れ込んだ。

「ライラー!」

 サイモンは振り向きざま、倒れた彼女を抱きとめる。

「痛い……サイモン、もう……死なせて……」

 ライラーはサイモンの襟元を爪を立てるように掴み、喉の奥からか細い唸り声を絞り出した。

「ライラー、馬鹿なことを言うな!」

 サイモンは彼女の頬を支え、顎へ口づける。温かな涙が、サイモンの掌にぽとぽと落ちた。

 ――でも、私は見た。

 ライラーがサイモンの腕の隙間越しに、私へ視線を投げたのを。薄く笑うその目が、こう言っているみたいだった。『あなたの負け』

 血が、どっと頭まで駆け上がる。

「仮病よ! こいつ、クズだ!」

 私は怒りに任せて立ち上がり、ライラーを指さした。声は激情で裏返り、掠れる。

「サイモン、ちゃんと見て! この女、演技よ! あなたを騙してる!」

 サイモンが、猛然と振り返った。瞳の奥には、凍てつく冷たさと、底なしの嫌悪。

「救いようがない……この毒女め」

 歯を食いしばり、痛みに身をよじるライラーをソファへ抱えて下ろすと、彼は大股で私に詰め寄った。そして、私の手から用紙をひったくる。

「ライラーを助けたくないからって、街角の闇診療所で偽造した紙を用意したのか?」

 雷に打たれたみたいに、身体が固まった。

「違う! 偽造じゃない! 町の病院の結果よ! 印章だって――」

「ビリッ――」

 耳障りな裂ける音が、私の言葉を真っ二つに断ち切った。

 サイモンは薄い紙を掴み、迷いもなく引き裂く。雪片みたいな紙切れが空へ散り、ゴミを払うみたいに投げ捨てられ、私の頬にひらりと貼りついた。

 目を見開いたまま、私はそれを見つめる。紙が裂けたのと同じ形で、胸の奥も裂けていく気がした。

「嘘つき女が。こんなことしてりゃ、ヤブが手を出すのを怖がって手術を免れるとでも思ったか?」

 床に散った紙切れを指し示しながら、彼は上から見下ろすように私の首を掴んだ。指が食い込み、息の逃げ道を奪う。

「サイモン……!」

 私は必死に彼の腕にしがみつき、もがく。

「っ……ぁ……!」

 意識が落ちかけた、その瞬間。彼は手を放した。

 私は床へ崩れ落ち、震える手を月へ向ける。

「はぁ……はぁ……月神に誓う……私、騙してない……」

「……10分だけでいい。調べれば、嘘かどうか分かる!」

 サイモンは私の手を、足で乱暴に弾き飛ばした。

「10分? ライラーは、今この瞬間ですら待てない!」

 彼は廊下へ向かって怒鳴りつける。

「誰か! 最大量の麻酔を持って来い!」

 扉の外から、白衣の狼医が二人、転げ込むように駆け込んできた。手にしているのは、巨大な金属製の注射器。凶暴化した重犯のアルファを制圧するためのものだ。

 紫色の薬液が視界に入った途端、私は半狂乱でベッドの隅へ身を縮めた。

「嫌! 打たない!」

「触らないで!」

「押さえろ」

 サイモンが氷みたいな声で命じると、二人は即座に飛びかかり、左右から私の肩を押さえつけた。

 私は残っている力をかき集めて暴れた。蹴り、噛みつき、叫ぶ。それでも――狼毒に侵された、弱りきったOmegaの身体じゃ、振りほどけない。

「サイモン、お願い……!」

 顔を上げる。涙で視界は滲み、彼の輪郭さえ揺れている。

「あなた、言った……愛は王冠みたいに永遠だって……!」

「こんなことしないで……お願い、許して……!」

 サイモンは無表情のまま、ベッド際へ来た。医者の手から注射器を奪い取る。

「ライラーを救うのが嫌で、ここまで卑劣になれるとはな」

 彼の掌が、私のうなじをがっちり掴む。逃げ道が、完全に塞がれた。

 見慣れた横顔。近づいてくる、長い針先。

「……やだ……やめて……」

 喉の奥から、死にかけの嗚咽が漏れる。

「お願い……お願いだから……」

「黙れ」

 一切の躊躇もなく、冷たい針が乱暴に首筋を貫いた。粘つく冷えた紫の薬液が、彼の親指で押し込まれ、一気に体内へ流れ込む。

「うっ――」

 痛みで身体が激しく痙攣し、白目を剥く。血の中へ薬が混ざっていく感覚は、砕けたガラスを丸呑みしたみたいだった。

 凄まじい麻痺が首元から狂ったように下へ広がり、脚も腕も、瞬きほどの間に感覚が消えた。

 私はぐしゃりと崩れ、乱れたベッドへ泥みたいに倒れ込む。

 サイモンは針を引き抜き、注射器を床へ放り投げた。次いで、深い灰色のハンカチを取り出し、わざと優しい手つきで私の額の冷や汗を拭う。そして囁く。

「いい子だ。すぐ終わる。言うことを聞ける子犬だけが、愛をもらえる」

 それから狼医へ振り向き、命令した。

「連れて行け。今すぐ手術だ」

 彼はなおも苦しげに呻くライラーを、宝物みたいに抱きしめ直す。

 部屋を出る寸前、背中越しに言い捨てた。

「嘘で固めた、身勝手で意地汚い女に、俺の子を産む資格はない。出てきたら――そのとき初めて許してやる」

 麻酔は凶悪なほど強い。なのに、血管の中で暴れ回る狼毒が、薬効の一部を相殺してしまう。

 意識が、残酷なほど半分だけ冴えたまま。

 ――連れて行かれる場所が、分かってしまう。

「……バン」

 地下の手術室の扉が、乱暴に開け放たれた。

 私は手荒く運ばれ、氷みたいに冷たい手術台へ移される。主刀の狼医の手へ渡ったのは、骨まで裂く森冷えた刃――狼人の肋骨を開くための、竜骨刀。

 医者が握る。冷たい金属の刃先が、ゆっくりと私の胸郭へ寄ってくる。

 そのとき。

 下腹の奥で、ありえないほど不気味な痛みが走った。

 次の瞬間、温かく粘ついた液体が、太腿の内側を伝って、ゆるりと流れ落ちていく。

 私は泣きながら、声にならない独り言をこぼした。

「わたし……の……子……」

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