第3章
肋骨が、竜の骨みたいに無骨にこじ開けられていく。
高濃度の鎮静剤は、全身の力だけを奪った。なのに、あの忌まわしい狼毒の作用で、痛覚だけが十倍に増幅されていた。
「あ……」
眩しい無影灯を睨みつけ、歯を食いしばる。喉の奥から漏れるのは、低く、かすれた呻き声だけ。
執刀の狼医が血にまみれた手袋のまま、私の胸腔から脈打つ心臓をそっと取り上げた。
「行け、ライラー夫人へ届けろ!」
五年分の愛情を詰め込んだこの心臓は――結局、こいつの手で、別の女の身体へ移植される。
医師は冷えきった機械の心臓を、血が噴き出し続ける私の胸に乱暴に押し込んだ。弁膜をいい加減につなぎ、合金の導線を接続する。
そして起動スイッチを押す。
次の瞬間、体内で抑え込まれていた狼毒が、津波みたいに全身をさらっていった。
「ピピピピピ!」
心電モニターが甲高い警報を叩きつける。
開胸より恐ろしい激痛が、骨髄の底からせり上がった。金属が私の血を狂ったように拒み、機械の拍動電流が神経を直に引き裂く。
「だめ! 患者の抗体が機械心を攻撃してる! 重度の拒絶反応!」
横の看護師が悲鳴を上げ、止血鉗子の入った金属トレーをひっくり返した。ガシャーン、と耳障りな音。
でも、もう何を叫んでいるのか、聞き取れない。
「産道から大出血! 止まらない!」看護師の声は裏返り、泣き声みたいに震えた。
「妊娠してた……胎児が……!」
視界が、滲む。
私は、残りかすみたいな力をかき集めて床を見る。そこには、目に刺さるほど濃い黒い血溜まり。その中に、形の判然としない小さな胎膜が混じっていた。
私が命がけで欲しかった、小さな狼の子。
「……私の、子……」
数分前、そいつの父親は、致死の毒を私の血へ押し込み、私の心臓を両手で掬って――自分の女に差し出した。
目尻を、最後の一滴が伝う。悲しみじゃない。あるのは、凍りついた悔恨だけ。
視界が、完全に闇へ沈む。
「……ピ」
心電図は緑の直線を残し、耳を裂くようなブザーが手術室の混乱を丸ごと呑み込んだ。
……
「奥様! 聞こえますか! 蘇生を――!」
医師の絶望的な咆哮が聞こえる。なのに私の身体は、やけに軽かった。
見下ろすと、そこには血の気ひとつない私の死体が手術台に横たわっている。胸元には、えぐられたような血の穴。中で機械心臓は沈黙し、下半身は血溜まりに浸かったまま。
魂が半空に漂っていた。
――そうか。狼人の心が完全に死ぬと、魂は本当に浮くんだ。
地下室をすり抜けると、光が一気に明るくなる。
領主の寝室だった。見慣れた大きなベッド。そこで私は、サイモンと数えきれない夜を転げ回った。
サイモンは、ベッドに横たわるライラーの手を深く握り、額にそっと口づける。
「おかえり、新しい命へ――俺のライラー」
「これで君は健康な心臓を手に入れた。もう病の苦しみもない」
ライラーは作り笑いを貼りつけたまま、彼の髪を撫でた。
「サイモン、やっと……あなたと、そしてお姉さまと一緒に暮らせるのね」
「ねえ、見に行って。お姉さまは大丈夫?」
サイモンの目に、いら立ちが一瞬走る。
「あの嘘つきには、そこで反省させておけ。どうせあいつは丈夫だ。心臓が変わったくらいで、あの身体なら明日にはケロッとしてる」
そう言うと彼は、ベッド脇のキャビネットから銀色の王冠を取り上げた。
――月光之泪。
五年前、彼が競売で破格の値段を叩いて手に入れたものだ。あのとき彼は、私にこう言った。私たちの愛は永遠に変わらない、子が生まれて一族が祝う日に、俺がこの手でお前の頭に載せる、と。
今、その王冠が取り出される。
けれど、載せられるのは私じゃない。王冠は迷いなく、ライラーの頭に収まった。
「ライラー、俺の優しい子」
「五年前、君は俺を救った」サイモンは彼女の目を見つめる。その甘さが、吐き気を催すほどだった。
「そして今日、君は病に勝った。狼群のアルファとして言う。ライラー――君が俺の唯一の伴侶だ。未来のLunaは君だ」
ライラーは羞恥に頬を赤らめ、顔を上げた。手を伸ばし、そっとサイモンの襟元をつかむ。
サイモンが身を屈め、熱に浮かされたように彼女の柔らかな唇を貪る。
「ドン!!」
扉が凄まじい力で叩き破られ、地を這うような低い声が、二人の甘い時間を無理やり切り裂いた。
サイモンが苛立たしげに振り返る。
執刀医が、絨毯へ重く膝をついていた。マスクも外せないまま、白衣には目が痛いほどの猩紅が飛び散っている。
サイモンは立ち上がり、怒りに任せて医師を蹴り倒した。
「誰の許しで、そのザマで俺の部屋に入った!?」
医師が勢いよく顔を上げる。血と汚れに塗れたその表情は、恐怖と崩壊でいっぱいだった。
サイモンの叱責など、頭にない。喉から、獣じみた叫びが弾ける。
「アルファ! 大変です!!」
医師は地下の方を指さし、涙と冷や汗を撒き散らしながら叫んだ。
「拒絶反応が……機械心臓が完全に拒絶されました! ゼラ小姐は……全身の血が、全部……!」
サイモンの指先が、ぴくりと固まる。医師の目を、食い入るように睨みつけた。
「……何を言ってる」
声が異様に低い。本人も気づかない震えが、そこに混じっていた。
「死にました!!」医師はなりふり構わず起き上がり、血の跡だらけの絨毯に額を叩きつけて嗚咽した。
「ゼラ小姐……それに、お腹の中の二か月の幼崽も! 手術台の上で、全部……心拍も消えた! 全員、死んだんです!!」
「あり得ない!」
