第4章
白川凰姫は淡いグリーンがいちばん好きだ。生命の匂いがする。
この色は、他人が着れば顔立ちの粗が際立つだけなのに、芳丸巡哉が纏うと肌はさらに白く見え、まるで十八歳の少年みたいに若く映る。
凰姫は何度も彼を見た。言葉が喉までせり上がっては、あの冷たい気圧に凍りつき、結局飲み込んでしまう。
説明したかった。相良沢弥とは何もないと。
けれど、どんな弁明も彼の目には「やましさ」を隠す言い訳に見えるかもしれない。
それに巡哉は、ニュースを見ているはずなのに、最初から最後まで何も訊いてこなかった。――そもそも、気にしていないのだろう。
二人の間は、最初から取引だ。芳丸巡哉の心に波を立てる資格なんて、自分にはない。
白川凰姫は自嘲気味に口元を歪め、結局、何も言えなかった。
車は滑るように芳丸本家へ入っていく。長い並木道を抜け、主屋の玄関前で静かに止まった。
運転手が降り、恭しく巡哉のドアを開ける。
巡哉は車を降りたが、すぐには中へ入らない。反対側へ回り、白川凰姫側のドアを自分で開けた。
外に立つ長身の影が落ち、廊下灯の光を遮る。逆光で表情は読めない。
「降りろ」
低い声。喜怒はない。
白川凰姫は動かず、ただ見上げた。
今日は月に一度の帰省日ではない。どうして今日、わざわざ本家へ……?
数秒の沈黙。巡哉は耐えきれなくなったように身を屈めた。圧が一気に迫り、凰姫が叱責されると思った瞬間――彼は手を伸ばし、彼女のシートベルトを外した。
冷たい指先が鎖骨をかすめ、小さな戦慄が走る。
「祖母がお前に会いたがってる。しばらく本家で相手してやれ」
そう言って手首を引き、屋敷へ連れていく。
玄関ホールは天井が高く、灯りが眩しいほどだ。広さが、かえって冷たさを強調していた。
「旦那さま、奥さま」
使用人が出迎え、巡哉が脱いだスーツの上着を受け取る。
巡哉は凰姫を見ない。入ってすぐ手を放し、淡々と言うだけ。
「夜食は温めてある」
それだけ残し、二階の書斎へ真っ直ぐ向かった。階段の折れた影に背中が飲まれていくまで、立ち止まりもしない。視線ひとつ、くれない。
祖母はすでに就寝していた。白川凰姫は二階の主寝室の前まで行き、書斎の扉越しにそっと覗く。巡哉はまだパソコンに向かい、前だけを見ている。顎の線が固く張り詰めていた。
この男は、政略結婚から今まで、結局ずっと分からない。
白川家に追い詰められたとき、婚約一枚で救い出した。
彼女がみっともなく崩れたときには、いちばん強引なやり方で盾にもなった。
――なのに、理由を言わない。
彼の行動はすべて、利害を秤にかけて選んだ最適解に見える。感情とは無関係。
相良沢弥の示威だって、意に介さないだろう。自分のものに手を伸ばされたところで、彼ほどの権力者が、いちいち腹を立てるはずがない。
その夜、白川凰姫は一睡もできなかった。
翌朝、薄い隈を抱えたまま階下へ降りたところで、スマホが鳴った。
表示は「養父」。胸が、理由もなく沈む。
彼女を芳丸家へ「売って」以来、向こうから連絡が来るのは年中行事の挨拶くらいだった。
通話を取った瞬間、白川昭修の、かつてないほど厳しい声が耳に突き刺さる。
「白川凰姫! 今すぐ白川家へ戻って来い!」
凰姫はスマホを握り、指先に力が入った。
「……何かあったの?」
「自分のやったことが分からないのか!」
声が跳ね上がり、怒りを抑えきれていない。
「相良沢弥のあのガキが昨夜うちへ来た! お前、自分の立場忘れたのか? お前は芳丸巡哉の太太だ! 勝手に会って、白川家まで巻き込む気か!」
相良沢弥は、本当に狂っている。公の場で求愛しただけじゃない。白川家にまで押しかけるなんて。
白川凰姫は胸の奥がざわつき、「……私は、何も」と言いかけた。
「言い訳するな!」
昭修は聞く耳を持たない。
「芳丸家は指一本でうちを潰せる! すぐ戻れ。俺の前で相良沢弥と話をつけろ。きっぱり切れ!」
「ぱんっ」と通話が切れ、冷たいツーツー音だけが残った。
白川凰姫はスマホを下ろし、胸の内が重く塞がる。
できるなら、一生白川家には戻りたくない。
昭修が気にしているのは、彼女という「商品」に傷が付いて白川家の利益が損なわれるかどうか――それだけだ。
白川凰姫は込み上げるものを押し込み、鞄からベルベットの宝飾箱を取り出して、本家の裏庭にある暖閣へ向かった。
これは巡哉の祖母の寿礼として用意していたものだ。昨日、もう少し綺麗な箱に替えようと工房へ持っていくつもりだったのに、記者に塞がれ――巡哉に連れられて、思いがけず本家へ来てしまった。
来たなら、先に渡してしまおう。
祖母は信心深く、毎朝、暖閣の小さな仏間で読経する。
花木が繁り、淡い香の匂いと草花の甘い香りが混じる。呼吸をすると、心が少しだけ落ち着いた。
読経を終え、使用人に支えられて茶を飲んでいた芳丸婆さんは、凰姫の姿を見た瞬間、皺だらけの顔をぱっと綻ばせた。
「凰姫が来たのね。さあ、こっちにおいで」
「おばあさま」
凰姫は近づき、箱を差し出す。
「少し前に私がデザインしたものです。お誕生日が近いので、寿礼にと思って」
婆さんは目を見開き、宝飾箱を受け取ると、そっと蓋を開けた。
中に眠っていたのは、エメラルドの蛇を象ったネックレス。宝を見慣れた婆さんの目にも、思わず息を呑む艶が走った。
陽光が宝石を射るたび、濃い緑が生き物のように息づく。
「まあ、うちの可愛い孫媳婦、なんて器用なの!」
婆さんは愛おしげに撫で、笑いが止まらない。
「この色、この形……私の好みそのものよ」
凰姫の手を取り、親しげにぽんぽんと叩く。
「あの高いブランド品より、孫媳婦の腕のほうがよほどいいわ」
真っ直ぐな賛辞に、白川凰姫は照れくさくなる。
「気に入っていただけて、よかったです」
「もちろんよ!」
宝飾箱を下げさせた婆さんは、手を離さないまま話を切り替えた。
「凰姫、じゅんと結婚して……三年になるのよね?」
白川凰姫は頷き、心臓が一拍抜けた。
「夫婦で一番大事なのは、坦诚よ。言うべきことは言う。誤解は早く解く」
透き通った眼差しが、何もかも見抜くみたいだった。
「心に溜めて、よそよそしく暮らしちゃだめ。男はね、とくにじゅんみたいな子は、考えすぎるくせに口が不器用。あなたが少し多めに担いで、少し多めに踏み込まないと」
