第2章 絆

 密室での歳月は、まるで淀みなく流れる水のように、静かに過ぎていった。

 八つになった年、姉さんは冒険者ギルドで正式な訓練を受け始めた。夕陽が落ちる頃になると、彼女はいつも決まって密室の入り口に現れ、温かい食事と外の世界の物語を運んできてくれる。

「ヴィオラ、今日ね、【聖光爆裂(ホーリー・バースト)】を習ったの。想像以上の威力だったわ!」

 エリスが興奮した様子で語りかけてくる。

 私は手にしていた古い本を閉じ、彼女をまっすぐに見つめた。

「姉さんはすごいね。……その魔法の原理は?弱点はあるの?」

「こっちに来て。魔法構築の基礎から、ゆっくり教えてあげる」

 姉さんは真剣な顔で私の隣に腰を下ろすと、聖光魔法の精髄を丁寧に解説し始めた。

 あの頃、姉さんは私と外の世界を繋ぐ、たったひとつの窓だった。

 王都の賑わい、冒険者たちの暮らし、魔法使いの塔での新しい研究――。姉さんが語るすべてを、私は密室の中で静かに吸収していく。それと同時に、己の内で少しずつ覚醒していく魔王の力を、ただひたすらに磨き続けていた。

 十六の年、姉さんは史上最年少でS級冒険者になった。彼女がS級の徽章を胸に密室へ現れた日、私は自分のことのように誇らしかった。

「姉さん、今日から本物の『聖光の女神』だね」

 私は姉さんの頬にそっと触れた。

「でも私にとっては、ずっと前からそうだったよ」

 姉さんは私の手を握り返し、その瞳に憂いを滲ませる。

「ヴィオラ……私はどんどん強くなるけど、あなたは……」

「私も強くなってる。ただ、やり方が違うだけ」

 私は微笑んだ。封印の魔法陣が、私の魔王の力に耐えきれず、すでに微細な亀裂を生み始めていることには、気づかせないように。

 けれど、幸福な時間はいつだって長くは続かない。

 リナは書斎で古い書物を捲っていた。月光が窓格子を抜け、彼女の憔悴しきった横顔を白く照らし出す。

「もう待てない。あの子が……あの子が、エリスの未来を壊してしまう!」

 その声には、冷たい決意が満ちていた。

 一ヶ月後の深夜。

 私は奇妙な目眩に襲われ、意識が朦朧としていくのを感じた。次に目を覚ました時、見知らぬ祭壇の上に横たわっていることに気づく。手足はごわごわした縄で縛られ、空にかかる月は血のように赤く燃えていた。

「どうやら俺たち、揃って家族に見捨てられた出来損ないらしいな」

 隣から、少年のかすれた声が聞こえた。視線を向けると、十六、七歳ほどの黒髪の少年が同じように祭壇の縁に縛り付けられている。その紫色の縦長の瞳が、暗闇の中で妖しく光っていた。

「無駄口はいい。生きたければ私の言うことを聞け」

 私は素早く周囲の状況を把握する。

「左に三匹、右に四匹、後方に……」

 影狼の群れの緑色の目が、森の奥で無数に瞬いている。奴らはゆっくりと、しかし着実に包囲網を狭めてきていた。

 死の気配が、私の内に流れる魔王の血を完全に沸騰させた。

「面白い。思ったよりずっと冷静だな、お前」

 少年の瞳に、一瞬だけ興奮の色がよぎった。

 縄が私の魔力に蝕まれ、ぷつりと断ち切れる。私は祭壇から跳び起きると、同時に少年の拘束も解いた。最初の一匹が飛びかかってきた瞬間、私の手には黒い魔力の棘が凝縮され、その喉笛を正確に貫いていた。

 鮮血が舞う中、少年は愉しげな笑みを漏らす。彼の動きもまた速い。紫色の暗黒の炎が狼の群れを焼き尽くし、辺りには血生臭さと肉の焦げる匂いが充満していく。

 私たちは背中合わせで戦った。その連携は、まるでずっと前からそうしていたかのように完璧だった。

 殺戮を重ねるたび、私は未だかつてない高揚感を覚えていた。それは魔王の血に刻まれた、本能の目覚めだった。

 最後の影狼が倒れた時、祭壇の上には屍が山と積まれていた。月光が血の霧を透かして私たちに降り注ぎ、まるでこの殺戮の宴を祝福しているかのようだ。

 少年は、私が魔力で狼の心臓を解剖し、魔獣の内部構造を研究する様を興味深そうに眺め、その目に賛同の光を宿した。

「お前も俺と同じだ。殺戮の最中に舞う、血飛沫の美しさを知っている」

 彼は眼の興奮を隠そうともしない。

「そうか……私と同じ怪物が、他にもいたんだ」

 初めて見つけた理解者に、私の心には奇妙な感動が込み上げてきた。

「俺たちは怪物じゃない。ただ、他の奴らより正直なだけだ」

 彼は真剣な眼差しで私を見つめた。

「俺はレイヴン。魔族の王子だ。追放された理由は……まあ、お前と似たようなもんだろう」

 私は頷いた。

「ヴィオラ」

 この血に染まった夜、私は初めて、真に私を理解する同類と出会った。

 夜明けが近づき、遠くから魔族の隠密部隊と思しき足音が聞こえてくる。レイヴンを迎えに来たのだろう。

「俺に会いたくなったらこれを起動しろ。俺たちみたいな人間は……互いに支え合うべきだ」

 彼は暗紅色の血の珠を一つ、私に手渡した。

「なぜ私を助けるの?」

 血珠を受け取り、その内に秘められた強大な魔族の力を感じ取る。

「お前が、初めて俺を怖がらず、怖がらないフリもしなかった人間だからだ」

 レイヴンは真っ直ぐな瞳で私を見つめた。

「この偽善に満ちた世界では、真実こそが最も美しい」

 彼を見送った後、私は血珠を手に屋敷へと戻った。

 この経験により、私の魔王の血はさらに覚醒し、体内の力は以前の数倍にも膨れ上がっていた。

 捨てられたはずの私が全身血塗れで屋敷に戻ってきたのを目にしたリナは、わなわなと震えてその場に立ち尽くしたが、私は意にも介さず、ただ自らの足で、あの封印の施された密室へと帰っていった。

 密室で、私は体系的に魔王の技能を修練し始めた。

 封印の魔法陣は私の力に晒され、日に日に脆くなっていく。だが、急いで破るつもりはなかった。姉さんが私を必要とする時、私は自ずと現れるだろう。そう、信じていたから。

 三年の月日が流れ、私は十九になっていた。

 その日の夕方、エリスが密室に戻ってきた時、私は姉さんの異変をすぐに察知した。かつての澄んだ瞳には疲労の色が濃く浮かび、身に纏う魔力の波動も以前ほど安定していない。

「姉さん、最近様子がおかしい。……魔力の波長も乱れてる」

 心配になって彼女の手を握った。

「任務が少し大変なだけよ。ヴィオラは心配しなくていいわ」

 姉さんは無理に笑ってみせたが、何かを隠しているのは明らかだった。

「姉さん、もし誰かが君を傷つけたら、必ず私に教えて」

 私は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、これまでにない真剣な口調で告げた。

「そんなことあるわけないじゃない。王国の聖光の女神を傷つけようだなんて、誰ができるっていうの?」

 姉さんは私の視線を逸らし、その笑顔はひどくぎこちなかった。

 胸騒ぎがする。双子の姉妹だからこそ、彼女の感情の揺らぎが手に取るようにわかる。何らかの厄介事が姉さんを脅かしており、そして彼女はそれを私に話すつもりがないのだ。

 そして、最も恐れていたことが起こった。

 ――姉さんが、消えた。

 丸一ヶ月、何の音沙汰もなかった。

 密室には微かな灯りだけが揺れ、私は独り待ち続けた。一分一秒が、まるで拷問のようだ。いつものこの時間なら、姉さんはとっくに密室の入り口に現れているはずだった。

「姉さん……一体、何があったの……」

 がらんとした密室に向かって呟く声が、石壁に虚しく響く。

 時が経つにつれて、私はかつてないほどの恐慌に襲われた。魔王の力が暴走し、黒い魔力が潮のように四方へ溢れ出す。

 かつては盤石だった封印が、その力の奔流を受け、ガラスのように砕け散った。

「もし、姉さんを傷つける奴がいるなら……」

 私は手の中の血珠を握りしめ、その瞳に氷のような殺意を宿した。

「……そろそろ、外に出る時かもしれない」

 私は低く、呟いた。

 その時、密室の扉が開かれた。

 リナが憔悴しきった顔で入ってきて、その目は血走り、絶望に満ちていた。彼女の様子に、私は最悪の予感を抱いた。

「エリスが……」

 リナは嗚咽し、声は震えて言葉にならない。

「大変なことに……」

 その瞬間、私の世界は、音を立てて崩れ落ちた。

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