第3章 天使の堕落と魔王の誕生

「姉さんは……」

母がここまで憔悴しきった姿を、私は今まで一度も見たことがなかった。まるで一夜にして十歳も老け込んだかのようだ。

「姉さんは、どこ」

自分の声が恐ろしいほど冷静であることに、私自身が驚いていた。心の中は、荒れ狂う嵐のようだというのに。

一ヶ月の失踪、母のこの惨状。そのすべてが、私が想像するのも恐ろしい、ひとつの結末を指し示していた。

リナはまるで全身の力が抜けたようにその場に崩れ落ち、両手で顔を覆って泣きじゃくる。

「ヴィオラ……私が、私が間違っていた……私が、すべて……」

「はっきり言って。一体、何があったの」

一歩、また一歩と彼女に詰め寄る。私の感情に呼応して、体内の魔王の血が熱く騒ぎ始めた。

「あの子は……あの、獣たちに……」

リナは嗚咽を漏らしながら、途切れ途切れに言葉を吐き出す。「私の、エリスが……」

獣たち。

私の脳裏に、瞬時に三つの名前が浮かんだ。

カール、デリック、セラス――姉さんが最も信頼していたチームメイト。王都の民から英雄と讃えられた、S級冒険者たち。

「あいつらが、姉さんに何をした」

リナの答えに、私の血液は一瞬で凍りついた。

「あいつらは……一ヶ月もの間、あの子を嬲りものに……エリスは、今……」

彼女の言葉を最後まで聞く前に、私は踵を返し、階上へと駆け上がっていた。

姉さんの部屋の扉を押し開けると、血と薬草の混じった生々しい匂いが鼻をついた。

かつては陽光に満ちていた部屋も、今は厚いカーテンが固く閉ざされ、床に描かれた治療の魔法陣が放つ微かな光だけが、頼りなく揺らめいている。私は無理やり自分をベッドへと向かわせたが、目の前の光景に、崩れ落ちそうになった。

ベッドに横たわっているのは、本当に私の姉さんなのだろうか。

髪はすべて剃り落とされ、紙のように白い頭皮が剥き出しになっている。かつて天使のように美しかったその顔は、骨まで見えるほど深い傷跡で無惨に覆われていた。すでに癒えたものもあれば、今もなお膿み、ゆっくりと血が滲み出ているものもある。布団の外に出された両手は、指の一本一本が捻じ曲げられ、不自然な角度で折られていた。

そして何より私の心を抉ったのは、彼女の胸元で輝いていたはずの天使の印が、漆黒に染まっていたことだ。まるで、聖なる魂ごと汚されたかのように。

「……これ、本当に姉さんなの?」

声が震え、両足がふらついて、立っているのもやっとだった。

後から入ってきたリナが、苦痛に満ちた表情で頷く。

「あの冒険者たち……勇者カール、聖騎士デリック、大魔法師セラス……彼らが……」

私はベッドの傍らに跪き、そっとエリスの頬に触れた。彼女の肌は氷のように冷たく、血の気は一切ない。

「姉さん……私が、来るのが遅かった……」

しかし彼女からの反応はなく、微かな呼吸さえ感じられない。胸が僅かに上下していなければ、彼女はもう……そう、思ってしまっただろう。

「生きては、いるのよね?」

私は姉さんの手を固く握った。それが今の私にとって、唯一の希望だったから。

「魔法師の方々が言うには……魂に、決して癒えぬ傷を負い、永遠に目覚めないかもしれない、と……」

リナの声は絶望に染まっていた。

「何があったのか、すべて知りたい」

私は振り返り、その目に昏い怒りの炎を燃やした。

リナは袖の中から記憶のクリスタル――記憶を保存し、再生できる希少な魔道具――を取り出した。

「これは、エリスが残したもの……あの子が、最後の力で記録したの……」

リナの手は震え、クリスタルを握りしめることさえ覚束ない。

彼女がクリスタルを灯すと、部屋の中にぼんやりとした映像が投影された。そこには、まだ傷ひとつないエリスが、薄暗い部屋で三人の見慣れた影と対峙していた。

クリスタルの中の姉さんは、最も信頼していた仲間たちを絶望の目で見つめている。

『どうして……? 私はあなたたちを、一番信頼できる仲間だと、そう思っていたのに……』

『聖光の女神?笑わせるな。ただの血筋のおかげだろうが』

カールの顔には、普段の正義に満ちた表情など微塵もない。そこにあるのは、冷え切った侮蔑の笑みだけだった。

『なぜ、お前が俺たちの上に立つ?』

デリックの目は、醜い嫉妬で濁っている。

『なぜ誰もがお前ばかりを称賛し、俺たちはただの付き人なのだ!』

セラスがゆっくりとエリスに歩み寄り、その目に貪欲な光を宿す。

『神器を渡せ。そうすれば、苦しまずに死なせてやる』

姉さんが驚愕に後ずさるのが見えた。彼女は、最も信頼していた者たちが自分を裏切ることなど、到底信じられなかったのだ。

『【聖光の翼】は、私の血脈が覚醒させた神器……!あなたたちに渡すわけにはいかない!』

エリスは抵抗しようとしたが、三人はとうに準備を整えていた。

続く映像は、ほとんど直視に堪えない地獄絵図だった。

彼らは特殊な魔道具で姉さんの力を封じ、無理やり神器をその身から引き剥がした。

【聖光の翼】が剥がされた瞬間、エリスの天使の血脈は完全に汚染され、胸の印は瞬く間に黒く染まった。

そして、一ヶ月にも及ぶ拷問が始まった。彼らは代わる代わる姉さんに内心の嫉妬と悪意をぶつけ、ありとあらゆる残忍な手段で彼女の身体と心を、尊厳ごと蹂躙していった。

映像は、姉さんの最後の悲鳴と共に、ぷつりと途切れた。

私は姉さんのベッドの傍らで、ただ跪いていた。部屋の温度が、急激に下がっていく。

怒り。今までに感じたことのないほどの、灼けつくような怒りが、胸の内で燃え盛っていた。

体内で何かが目覚め、あらゆる束縛を突き破ろうと咆哮しているのを感じる。

「姉さんを傷つけた奴らは……」

私の声は低く、地獄の底から響いてくるような冷気を帯びていた。

「生き地獄を、味あわせてやる」

黒い魔力が私の体から迸り、部屋中のガラスというガラスを瞬時に粉砕した。床が軋み、壁に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。

密室にあった頑丈な封印の鎖さえ、この力の奔流の前に、あっけなく砕け散った。

脳内に、無機質なシステムの通知音が響く。

『魔王血脈覚醒度100%、最終スキル【死の支配】をアンロック』

『【魔王級暗黒魔法】スキルツリーをアンロック』

『すべての封印は自動的に解除されました』

私は立ち上がり、体内に渦巻く、絶対的な力を感じていた。

十年の封印は私の血脈を弱めるどころか、より純粋に、より強大に、研ぎ澄ませていたのだ。

「本当の恐怖というものを、あいつらに教えてやる」

リナは私の放つ禍々しい魔王の力に震え上がっていたが、それでも必死に体を支え、私の前に跪いた。

「お願い……エリスの仇を討って……!あなたにしか、できないことなの……!」

彼女の声は懇願に満ち、その目には絶望した母親の哀しみが宿っていた。

私は彼女を見下ろし、冷たい弧を口元に描く。

「十年前は私を化け物と呼び、今度はその化け物に助けを乞うの?」

「どんな代償でも払うわ……私の、命でさえも……」

リナは泣き崩れ、床に額を擦り付けた。

「あなたを傷つけたことは分かってる。助けを請う資格がないことも……でも、でも、エリスは……エリスだけは、無実なの!」

母の卑屈な姿を見て、心に複雑な感情が湧き上がる。

怒り、恨み。しかしそれ以上に、姉さんへの痛ましさが勝っていた。

私はベッドで意識なく横たわる姉さんに振り返り、その声は、いつしか優しいものに戻っていた。

「あなたのためじゃない。姉さんの、ためよ」

その言葉に、リナはまるで罪を許されたかのように、安堵の嗚咽を漏らした。

密室に戻ると、私の頭に完璧な「復讐」が閃いた。

エリスに完璧に成り代わり、そして仇敵を一人ずつ、この手で葬り去るのだ。

鏡に向かい、私は姉さんの表情を練習し始めた。

姉さんはいつも、目に純真さを宿し、あんなにも優しく微笑んでいた。魔王の血を引く妹である私に対しても、嫌悪を見せたことなど一度もなかったから。私は彼女の立ち居振る舞いを真似て、何度も、何度も練習を重ねた。鏡の中の姿が自分なのか彼女なのか、自分でも区別がつかなくなるほどに。

だが、これだけでは足りない。もっと、助けが必要だ。

私は手の中の血珠を握りしめ、それを起動させた。

「レイヴン……あなたの助けが必要みたい」

「姉さん、安心して眠って。残りは、私に任せて」

私は姉さんの額にそっとキスをした。幼い頃、彼女が私を慰めてくれた時のように。

血珠から、すぐにレイヴンの応答が返ってくる。

『ヴィオラか?何があった』

「あなたの力がいるの……私の、一番大切な人のために」

私は姉さんの身に起きたことを、簡潔に伝えた。

血珠の向こうはしばし沈黙し、やがてレイヴンの低い声が響いた。

『……その三人、弱点は俺が探してやる』

「ありがとう、レイヴン」

『礼には及ばない。俺たちは、同類だろう?』

私は頷き、それから掌を切り裂き、その血をエリスの額に滴らせた。

「魔王の名において誓う。あの三人を、必ず絶望の淵で死なせてみせる」

血はエリスに触れた瞬間、不気味な赤い光を放った。これは魔王の血脈による血の誓い。一度立てれば必ず履行せねばならず、さもなくば血脈が誓約者に牙を剥く。

だが、どうでもいい。あの三匹の獣に、相応しい代償を払わせられるのなら。

「今日から、私がエリス・レスタ」

私は立ち上がり、目に復讐の炎を燃やす。

「一ヶ月後、聖光の女神として王都に返り咲き、かつての『英雄』たちに、絶望の味を教えてあげる」

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