第1章
東京のある漫画専門学院の展示ホール。ブラインドの隙間から差し込む陽光が、床にいくつもの金色の光の筋を描き出していた。
佐藤一郎は震える両手で手描きの漫画集を抱えていた。表紙にはピンク色の水彩で夏美の横顔が描かれ、その睫毛の一本一本が、少女の呼吸に合わせて揺れているようにさえ感じられる。
「夏美、付き合ってください」彼の声は張り詰めていた。「丸三ヶ月かけてこの漫画を描き上げたんだ。中の一コマ一コマが、君への僕の想いなんだ」
夏美は漫画集を受け取ると、最初のページを開き、その瞬間に息を呑んだ。漫画の中の彼女は白いワンピースを着て桜の木の下に立ち、その眼差しは春の陽だまりのように優しく、一つ一つの仕草や微笑みが、まるで生きているかのように描かれていた。
「一郎君……すごく綺麗」夏美の頬が赤く染まる。「本物の私より……」
「より、何?」佐藤一郎はごくりと唾を飲み込んだ。
「より、お姫様みたい」夏美は恥ずかしそうに俯いた。「私……」
「そいつと付き合うな!」
雷鳴のような一喝がホールに響き渡った!
展示ホールの影から、突然、長身の中年男性が現れた。男は三歩で二人の前まで駆け寄ると、夏美の手から漫画集をひったくった。
「やめて!」夏美が悲鳴を上げる。
ビリッ——。
精巧な漫画集は、無情にも真っ二つに引き裂かれた。
「気でも狂ったのか!」佐藤一郎は中年男に怒鳴りながら飛びかかった。「これを描くのにどれだけかかったと思ってるんだ!」
中年男は冷笑を浮かべながら漫画集の破片を空中に放り投げた。紙片が雪のように舞い落ちる。「三ヶ月?、それだけじゃない。お前が二十三ページ目で彼女の目を十七回描き直し、四十五ページ目の桜の花びらのために十二種類のピンクを試したことも知っているぞ」
佐藤一郎の顔色が変わった。「な……なんでそれを……」
「俺がお前だからだ」中年男の眼差しは刃のように鋭い。「2080年から来た、佐藤一郎だ」
展示ホール内の空気が、まるで凍りついたかのようだった。
夏美は信じられないといった様子で中年男の顔を見つめた。皺や年輪が刻まれてはいるものの、その輪郭は確かに佐藤一郎と驚くほど似ている。
「ありえない……」夏美は喃々と呟いた。
中年男はくるりと向きを変え、隅で静かに本を読んでいた田中優の腕を掴んだ。
「優君!」佐藤一郎が驚きの声を上げた。
田中優は眼鏡を押し上げ、されるがままに佐藤一郎の前に引き寄せられた。彼女は小柄で、黒いストレートの長髪を一分の隙もなく後ろで束ねている。その手にはまだ『コンテ技法大全』が握られていた。
「こいつだ。お前が選ぶべきなのは」中年男は田中優の肩を強く押さえつけた。「技術に専念し、理論も盤石だ。どこかの誰かさんみたいに、見栄えだけの感性的な作品を描くのとは違う」
男は感性的な作品と言った時、その声に嫌悪を滲ませた。
「何を言ってるの?」夏美が怒って立ち上がった。「私の作品が何だって言うの?」
「見栄えだけ。技術は稚拙で、派手な色彩で基礎力のなさを誤魔化しているだけだ」中年男は冷たく夏美を睥睨した。「2080年、AI漫画プログラムが一日に、お前のような『感性的な作品』をどれだけ生産できるか知っているか?」
「一万本だ」
「しかも、そのどれもがお前の描くものより上手い」
夏美は雷に打たれたように、顔面が真っ白になった。
「もうやめろ!」佐藤一郎が夏美の前に立ちはだかった。「あんた、一体何者なんだ?警備員を呼ぶぞ!」
「呼ぶなら呼べばいい」中年男はスマホを取り出した。画面には、十歳の佐藤一郎が部屋でこっそり際どい漫画を描いているところを、母親に見つかった瞬間の写真が映し出されていた。
佐藤一郎の顔が瞬く間に赤く染まった。「な……なんであんたがその写真を?」
「俺がお前だからだよ、馬鹿が」中年男は嘲るように笑った。「それに、お前が漫画研究会で初めて夏美と『偶然』出会ったのも、実際には一週間前から彼女の授業の時間割と部活動の時間を調べていたからだよな?」
夏美は衝撃を受けて、佐藤一郎の方を振り返った。
「一郎君……本当なの?」
佐藤一郎は口ごもり、額に細かい汗が滲んだ。「僕……僕は……」
「お前のベッドの枕元に置いてある『完璧な女性キャラクターの描き方』って本の、扉ページに『夏美のために』と書いてある文字のことまで、ここで言ってやろうか?」中年男は一歩一歩と追い詰める。
田中優は傍らでそのやり取りを呆気に取られて聞いていたが、その瞳にはどこか奇妙な光が瞬いていた。
「夏美、行こう」佐藤一郎は強引に夏美の腕を引いた。「こいつは明らかに頭がおかしい」
「ああ、とっとと行け」中年男は手を振った。「どうせすぐに、俺の言っていることが正しかったとわかる」
「一郎君……」夏美は何か言いかけたが、佐藤一郎に引っぱられて慌ただしく展示ホールを後にした。
廊下で、夏美は佐藤一郎の歩調についていけず、ほとんど引きずられるように進んでいた。
「一郎君、もう少しゆっくり……」
「先にアトリエに戻っててくれ。一人で頭を冷やしたい」佐藤一郎は教室の入口で立ち止まると、夏美の方を見ようともしなかった。
「でも……」
「頼む」彼の声には苛立ちが混じっていた。
夏美は唇を噛み締め、最後は頷いて教室に入っていった。
だが、彼女は絵を描き始めることはなく、そっと窓際に身を寄せた。
案の定、十分後、佐藤一郎が再び廊下に現れ、慌ただしい様子で展示ホールの方向へと歩いていく。
「やっぱり……」夏美の胸に不吉な予感がこみ上げてきた。
彼女はこっそりとその後を追い、佐藤一郎が学院の裏手にある桜の木の下で立ち止まるのを見た。そこには、あの中年男がすでに彼を待っていた。
二人の激しい対話が始まった。
距離が遠すぎて、夏美には具体的な内容は聞き取れない。だが、佐藤一郎の表情が怒りから驚きへ、そして物思いへと変わっていくのが見て取れた。
彼らの話し合いは、丸三時間も続いた。
夕陽が沈む頃、ようやく佐藤一郎は一人でその場を去った。その背中は、ひどく重く見えた。







