第2章
翌日の漫画創作の授業で、夏美はいつものように自分の画板の傍らで画材を整えながら、佐藤一郎が来るのを待っていた。
来月の新人コンテストに一緒に参加する約束を、二人はすでに取り付けていた。夏美がキャラクターデザインと作画を担当し、佐藤一郎がストーリー構成とネームを担当する手はずだ。
教室のドアが押し開けられ、佐藤一郎が入ってきた。
「一郎君!」夏美は興奮気味に手を振る。「昨日の夜、また新しいキャラクター設定をいくつか考えたの。ちょっと見て……」
しかし佐藤一郎は彼女を一瞥もせず、まっすぐ教室の反対側にいる田中優のもとへ向かった。
「優君、僕と組んで新人コンテストに参加してくれないか」
教室全体が、瞬間、静まり返った。
田中優は眼鏡を押し上げ、目に一瞬得意げな光を走らせたが、表面上はあくまで謙虚に振る舞った。「え?一郎君、あなたはもう夏美と約束しているんじゃなかったかしら」
「彼女とはただのクラスメイトで、創作上の協力関係は一切ない」佐藤一郎の言葉が、刃のように夏美の心臓を突き刺した。
夏美の手から絵筆が落ち、カラン、と乾いた音を立てた。
「一郎君……何を言ってるの?」夏美の声は震えていた。
佐藤一郎はようやく振り返ったが、その眼差しはまるで他人を見るかのように冷え切っていた。「はっきり言わなかったか?僕には、本当の意味でプロフェッショナルなパートナーが必要なんだ」
彼は田中優の画板の前まで歩いていくと、彼女が描いているキャラクターの衣装のラフ画をうっとりと眺めた。
「この線を見てくれ。一筆一筆がミリ単位で正確だ」佐藤一郎は感嘆の声を漏らす。「これこそが本物の漫画だよ」
田中優は恥ずかしそうに俯いた。「一郎君、褒めすぎですわ。私なんて、まだまだ学ばなきゃいけないことがたくさんありますもの」
「謙虚なのは美徳だけど、君は本当に優秀だよ」
佐藤一郎の優しい口調に、夏美は眩暈を覚えた。その優しさは、昨日まで彼女のものだったはずなのに。
他のクラスメイトたちがひそひそと囁き始めた。
「え、佐藤ってずっと夏美のこと追っかけてなかった?」
「昨日、告白したって聞いたけどな」
「なんで急に変わったんだ?」
夏美は平静を保とうと努め、自分の作品を描き続けたが、手はもう震えていた。
***
漫画研究会の活動室。
夏美は出展準備中の原稿を整理していた。たとえ佐藤一郎が協力してくれなくても、彼女は一人で新人コンテストに参加するつもりだった。
「あら?夏美、まだいたのね」ドアの方から田中優の声がした。
彼女は佐藤一郎と共に活動室へ入ってきて、手には画材の山を抱えている。
「ちょっと物を取りに来たの」そう言って、田中優はロッカーへ向かった。
夏美は二人を無視し、自分の作品の整理に集中した。
突然、田中優が持っていたインク瓶が「うっかり」滑り落ち、黒いインクが夏美の服に飛び散った。さらに悪いことに、完成間近だったカラー原稿の上に、インクは直接ぶちまけられた。
「あっ!ごめんなさい!」田中優は慌てて謝ったが、その目には一片の申し訳なさも浮かんでいなかった。
夏美は台無しにされた作品を見つめた。二週間もかけて描き上げたものだった。
「大丈夫……」彼女は必死に涙をこらえた。
「夏美、君はいつも大事な作品をこんな危ない場所に置いている」佐藤一郎が冷ややかに言った。「これじゃ事故が起きやすいのも当然だ」
夏美は信じられないというように彼を見た。「一郎君……私のせいだって言うの?」
「事実を言っただけだ」
田中優はまた自分の荷物を片付け始めた。彼女の作品集は高く積み上げられている。突然、その一番上にあった分厚い画集が「不意に」滑り落ち、夏美の画板を正確に直撃した。
バキッ!
夏美が新しく描き始めていた作品に、穴が開いた。
「あらやだ!手が滑っちゃった!」田中優は口を覆い、さも無実といった様子で装う。「画集が突然滑り落ちるなんて、私も思わなくて……」
「わざとだろ!」ずっと隣で見ていた部員の小林が、思わず声を上げた。「俺ははっきり見たぞ、お前がわざと突き落としたのを!」
「そうだ!私も見た!」もう一人の部員が同調する。「田中、あんたのやり方はひどすぎる!」
「本当にわざとじゃありません……」田中優は目を赤くし、ひどく傷ついたように見えた。
その時、佐藤一郎が前に進み出た。
「もうやめろ!」彼は田中優をかばうように立ち、非難するクラスメイトたちを睨みつけた。「君たちにどうして優君がわざとやったなんて言える?彼女はもう謝ったじゃないか!」
そして彼は夏美に向き直った。その眼差しには、今までにない冷たさと非難の色が宿っていた。「夏美、君は自分が少しやりすぎだとは思わないのか?優君はうっかりミスをしただけなのに、君はこんなに大勢に彼女を責めさせている」
夏美は世界がぐらぐらと揺れるのを感じた。「一郎君……何を言ってるの?」
「僕は、君は責任を取ることを学ぶべきだと言っているんだ。いつも人のせいにするんじゃなくてね」佐藤一郎の言葉は氷の刃のように冷たかった。「君は、完璧な技術を持つプロの漫画家に嫉妬しているのかもしれないが、それを理由に他人に八つ当たりしていいわけじゃない」
「嫉妬?」夏美の声は、ほとんど叫び声に近かった。「私が、嫉妬してるって?」
「違うのか?」佐藤一郎は冷笑した。「優君の技術は君の十倍は上だ。君はそれが面白くなくて、彼女がわざと君の作品を壊したなんて、口実を見つけたんだろう」
活動室は静まり返った。
誰もが信じられなかった。昨日まで夏美を追いかけていたはずの佐藤一郎が、今日、こんなにも残酷な言葉を吐くなんて。
「僕には、より高いレベルの創作パートナーを求める権利がある」佐藤一郎は最後に追い打ちをかけた。「いつまでも派手な絵を描くだけのアマチュアと時間を無駄にするんじゃなくてね」
佐藤一郎の傍らで、田中優は夏美への嫉妬と得意げな表情を隠そうともしなかった。彼女はそっと佐藤一郎の袖を引き、か弱い声で言った。「一郎君、行きましょう……。ここで皆さんに迷惑をかけたくないわ……」
「ああ、行こう」佐藤一郎は優しく田中優を見つめる。「君に嫉妬するような連中は放っておけばいい」
二人は活動室を去り、夏美は一人、床にこぼれたインクと破れた紙の中に立ち尽くした。
夏美の涙はついに堪えきれなくなり、ぽたぽたと毀された原稿の上に落ちた。
散らばった紙片の中には、昨日破り捨てられた告白漫画の欠片も混じっていた。桜が舞う表紙は見る影もなかったが、描かれた夏美の優しい眼差しが、その隙間からわずかに覗いていた。
ただ今、その瞳は絶望と怒りに満ちていた。
小林や他の部員たちが彼女を慰めようとしたが、夏美は手を振って断り、一人黙々と後片付けを始めた。
彼女には分からなかった。なぜ一夜にして、世界がすっかり変わってしまったのか。
なぜ、愛していると口癖のように言っていたあの人が、こんなにも見知らぬ、残酷な人間になってしまったのか。
***
学院の庭では、桜が満開の季節を迎えていた。
夏美はあの見慣れた桜の木の下で創作をしていた。指で幹の木肌をそっと撫でると、思い出が潮のように押し寄せてくる。
三ヶ月前、彼女と佐藤一郎の縁が始まったのは、まさにこの場所だった……。
当時、彼女が木の下で写生をしていると、佐藤一郎が画板を抱えて駆け寄ってきた。黒縁の眼鏡が陽光にきらきらと輝いていた。
「夏美!」
「一郎君、あなたも写生に来たのね」夏美は優しく微笑んだ。
佐藤一郎は彼女の隣に腰を下ろし、おずおずと画板のスケッチブックを開いた。「夏美、見てくれ。今日の僕の桜、どうかな」
夏美がスケッチブックを受け取ると、その目は瞬時に輝いた。紙上の桜の木は生き写しのように描かれ、一つ一つの花は木目まで見えるほどに緻密だった。
「すごく綺麗……」彼女は思わず感嘆の声を漏らした。「あなたの技術、本当に素晴らしいわ」
「じゃあ……じゃあ、どうすれば作品に感情を込められるか、教えてくれないか」佐藤一郎の顔は桜の花びらのように赤かった。「僕の絵は正確だけど、いつも何かが足りない気がするんだ……」
夏美は何か考えるように頷いた。「この花を見て……」
彼女は絵筆を取ると、スケッチブックにさらさらと数筆を加え、可憐な少女を描き足した。
几帳面だった桜は、少女の恥じらいによって、たちまち生命力を得た。
「わあ……」佐藤一郎は呆然と見つめていた。「夏美、君はどうやってこれを?」
「技術はただの土台だと思うの。本当に人の心を打つのは、あなたの絵の中にある物語よ」夏美の瞳は光で煌めいていた。「桜を描く時、花びらの形だけを考えるんじゃなくて、その物語に込められた感情を想像するの」
その日から、佐藤一郎は毎日この桜の木の下で彼女を待つようになった。
「夏美、今日は泣いている桜を描いてみたんだ」
「夏美、このキャラクターの怒った顔を見てくれ……」
「夏美、僕は君みたいな漫画家になりたい。絵筆で本当の感情を伝えられるような」
会話を交わすたびに、指導するたびに、二人の距離はどんどん縮まっていった。彼の作品は彼女の指導のもとでますます生き生きとし、彼女もまた、この真面目で努力家の少年に心を動かされていた。
一昨日、佐藤一郎はここで正式に告白すると言っていた。もしあの奇妙な男に邪魔されなければ、彼女はこの、当たり前のように結ばれるはずだった恋を受け入れるつもりだったのに……。
「まだそんな役に立たない作品を描いているのか?」
冷淡な声が背後から聞こえた。夏美が振り返ると、佐藤一郎が彼女の後ろに立っており、その眼差しには今まで見たこともない侮蔑の色が浮かんでいた。
「一郎君……」
「こんな未熟な構図、こんな素人じみたパースで、誰の心を動かせると思っているんだ?」佐藤一郎は彼女の絵を指差し、冷たく言い放った。
夏美の顔は瞬時に真っ赤になった。「私の作品が何ですって?」
「問題だらけだ」佐藤一郎は彼女の画板の前まで歩み寄り、彼が「欠陥」とみなす箇所を一つ一つ、容赦なく指摘し始めた。
「ここの人体比率がおかしい。そこの背景のパースに問題がある。全体の構図にまとまりがまるでない」
「でも……でも、どの作品にも生命力はあるわ……」夏美は反論しようとした。
「生命力?」佐藤一郎は鼻で笑った。「自分を騙すのはやめろ。完璧な技術こそが、厳しい訓練によって到達できるものだ。生命力だと?なんて曖昧で実体のないものなんだ!」
ちょうどその時、田中優もやって来た。手には分厚い画集を何冊か抱えている。
「一郎君、これが今日仕上げたコンテスト用のデザインですわ」彼女は恭しく画集を佐藤一郎に差し出した。
佐藤一郎は画集を受け取って数ページめくると、その目にすぐさま称賛の光が宿った。
「優君、君の線はますます正確になっているね」彼の口調は、夏美の心を抉るほどに優しかった。「このパースの関係、明暗のコントラスト!これこそが本物のプロの仕事だ」
田中優は恥ずかしそうに俯いた。「一郎君、褒めすぎですわ。コンテストは目前ですし、まだまだ努力しないと」
「いや、君はもう素晴らしいよ」佐藤一郎は練習帳を閉じると、それから意図的に夏美をちらりと見た。「少なくとも、そこの誰かさんよりははるかにね」
田中優は眼鏡を押し上げ、夏美の作品に目をやった。その口調には軽蔑が滲んでいる。「夏美、もっと基礎的な創作理論を学んだ方がいいわ。アイデアだけあっても、技術がなければどうにもならないもの」
その言葉を聞くと、佐藤一郎はしきりに頷いた。
「優君の言う通りだ」彼は情け容赦なく同調する。「感性による創作なんて、ただのアマチュアの自己満足に過ぎない」
絵筆を握る夏美の手が震え、涙が目に溜まる。
「優君、行こう」佐藤一郎は田中優の練習帳を手に取った。「もっと斬新な構図を研究しに行こう」
二人が去り際に、田中優は夏美を振り返り、その目に得意げな光をきらめかせた。夏美は一人、桜の木の下に座り、未完成の作品を見つめ、ついに涙が頬を伝って滑り落ちた。
「夏美!」
絵画サークルのメンバーである小林が慌てて駆け寄ってきた。夏美の赤く腫れた目を見て、すぐに何があったのかを察した。
「また佐藤のやつか?」小林は憤慨した。「あいつ、最近どうしたんだよ?急にあんなに変わっちまって!」
もう一人のメンバー、中村もやって来た。「佐藤は田中に洗脳されたんじゃないか。夏美、あいつの言うことなんて気にするな」
「そうだよ!」小林は力強く頷いた。「佐藤にはお前の創作を評価する目なんてないんだ!作品で一番大事なのは、人の心を動かせることだろ!」
中村も慰める。「技術は後から学べるけど、お前みたいな創作の才能は生まれつきのものだ。佐藤がお前と組んでコンテストに出るのをやめるなら、それはあいつの損失だよ」
「みんな、励ましてくれてありがとう……」夏美はかろうじて笑顔を絞り出した。「私なら、大丈夫だから」
夏美の心は、疑惑と苦痛で満ちていた。
親密そうに去っていく二人の後ろ姿を見て、夏美の心は再び引き裂かれた。
「私、もう帰るね」彼女は急いでクラスメイトに別れを告げ、一人で学院を後にした。







