第3章
あの頃の私は、大学に入学したばかりだった。
キャンパスの中央に立ち尽くし、汗で湿った地図を手にしながら、自分がどこにいるのか皆目見当もつかなかった。
本条財閥の令嬢として育った私は、見知らぬ人に助けを求めることに慣れておらず、ただ桜並木の下をうろつき、経済学部棟への道を探そうと試みていた。
「迷子ですか?」
背後から、穏やかな声が聞こえた。
振り返ると、紺色の制服を着た背の高い男子学生が立っていた。桜の木漏れ日が彼の身に降り注ぎ、一瞬、その顔がよく見えなかった。
「経済学部棟を探しているんです」
私は少し気まずい思いで認めた。
「今日が、初めてここで」
「ちょうど僕もそっちへ行くところです」
彼は微笑んで言った。
「藤原翔太郎と申します。案内しますよ」
藤原翔太郎! その名前に、私はすぐにピンときた。藤原グループの跡取りにして、T大学の有名人。両家はビジネス上の付き合いこそあれ、噂に名高い藤原家の長男に会ったことは一度もなかった。
彼は想像していたよりもずっと親しみやすく、その眼差しには穏やかな気遣いが宿っていた。
「本条千夏です」
と私は応えた。
「本条?」
彼は片眉を上げた。
「本条誠の妹さん?」
彼が兄を知っていることに少し驚きながら、私は頷いた。
「奇遇ですね。君のお兄さんとは、何度かビジネスのプロジェクトでご一緒しました」
藤原翔太郎は歩きながら言った。
「でも、妹さんがいるとは一度も聞いたことがなかったな」
「兄はあまり家のことを話したがらないんです」
私は苦笑した。
「特に、私のことに関しては」
私たちはキャンパスを横切り、図書館と桜並木を通り過ぎた。
藤原翔太郎は、まるで初めて会った他人同士ではなく、昔からの知り合いであるかのように、一つ一つの建物の歴史や用途を丁寧に説明してくれた。
「父は、私を商売に向いていないと考えているんです」
どうしてか、私はこの出会ったばかりの先輩に胸の内を打ち明けていた。
「ずっと兄の方を重んじていて、本条財閥は男性にしか継げないと思い込んでいます」
藤原翔太郎は足を止め、真剣な眼差しで私を見つめた。
「ビジネスの世界が挑戦に満ちているのは確かです。でも、性別が成功の可否を決める要因になったことなんて一度もありません。大切なのは、困難にどう立ち向かい、どう機会を掴むかです」
「本当にそう思いますか?」
私は、半信半疑で問いかけた。
「もちろん」
彼は微笑んで言った。
「多くの優秀な女性起業家を見てきました。彼女たちは、一部の男性よりもよほど先見の明と決断力を持っています」
彼の言葉はシンプルでありながら力強く、一つ一つがまるで私のためにあつらえられた励ましのようだった。
その瞬間、未来にさえ活力が湧いてくるような気がした。
私たちはすぐに経済学部棟に到着した。
「ありがとうございます」
私は心から言った。
「あなたの助けがなかったら、まだしばらく迷っていたかもしれません」
「どういたしまして」
彼は笑って言った。
「他に何か、手伝えることはありますか?」
まさにこの言葉、この穏やかな口調が、十年後の病床で私に涙を流させたのだった。
私は勇気を振り絞り、立ち去ろうとする彼に向かって言った。
「好きです。将来、あなたのお嫁さんになってもいいですか?」
彼は一度こちらを振り返り、口角を微かに上げた。
「もちろん、可能性はある」
耳に響くのは鳥のさえずりか、虫の音か。それとも、抑えきれない心臓の鼓動か。
その言葉を、私は何年も覚えていた。
それがただの社交辞令だと分かっていても、それでも、何年も心に刻んでいた。
だから、長年慕っていた人と結ばれ、藤原夫人となった時、私は本当に気が狂いそうなほど嬉しかった。
だが今、病院のベッドに横たわりながら、認めざるを得ない。私たちの幸せは薄氷を踏むが如く、一つの不測の事態によって、いつ崩れ去ってもおかしくないものだったのだと。
なぜなら、彼は私を愛していないから。
始めから終わりまで、これは私の、決して叶うことのない儚い夢に過ぎなかったのだ。
「千夏、大丈夫?」
医師からは一週間の自宅静養を勧められ、藤原翔太郎はもう会社へと向かってしまった後だった。
「翔太郎さんは会社へ?」
私は、答えを知りながら尋ねた。
「ええ、緊急の会議があると言っていたわ」
母が私の向かいに腰を下ろし、心配そうにこちらを見ている。
「あなたたち、何か揉めているんじゃないの?」
私は首を振り、完璧な笑みを顔に貼り付けた。
「いいえ、仕事のプレッシャーで、一時的にすれ違っているだけですわ」
母はため息をついた。
「千夏、両社が今や戦略的提携関係にあることは分かっているでしょう。もしあなたたちの間に何か問題があるのなら、大局を見て行動してほしいの」
その洗練された顔立ちの下には、抜け目のない計算が隠されている。母が気にしているのは、私と翔太郎の結婚生活の幸せではなく、利益なのだ。
「たとえ彼に隠し子がいたとしても、利益のために耐えろと?」
私は彼女の目を真っ直ぐに見つめて、問い質した。
母は答えず、代わりにタブレットを取り出すと、とある経済ニュースサイトを開き、途端に顔色を曇らせた。
【藤原グループCEO藤原翔太郎、隠された家庭が発覚!】
【藤原翔太郎、元モデルの恋人・泉清子と再会。湘南の別荘へ複数回の出入り!】
写真には、藤原翔太郎が泉清子を支えながら湘南の別荘の門をくぐる姿が写っていた。日時は、私が主催したビジネスパーティーの翌日を示している。
それらの写真を注意深く観察すると、撮影アングルが非常にプロフェッショナルであることに気づく。パパラッチの盗撮とは思えない。これはむしろ、何者かが意図的に仕組んだメディア戦略のようだ。
泉清子、やはりあなたは一筋縄ではいかない。
私は突如として彼女の戦略を理解した。子供を藤原家に入るための切り札とし、世論の圧力を利用して株と地位を勝ち取ろうとしているのだ。もし彼女が成功すれば、藤原翔太郎のCEOの座が揺らぐだけでなく、本条財閥と藤原グループの戦略的提携にも影響が及ぶだろう。
「分かりましたわ」
私は落ち着き払って母に告げた。
「この件は、わたくしが処理いたします」
母は私の冷静さに意表を突かれたようだった。彼女は一瞬ためらった後、頷いて部屋を後にした。
私は窓際に立ち、東京のスカイラインを眺める。
十年前、キャンパスで道に迷い、悔しくて泣き出しそうになっていた少女は、今やどんな嵐にも対処できるビジネスウーマンへと成長していた。
「あの方の思い通りにはさせない」
私は自分に言い聞かせた。
「ビジネスの世界でも、家庭においても」
