第3章

レストランの空気が、一瞬で凍りついた。

ワインを浴びせられた女は、がたんと音を立てて立ち上がる。化粧はぐしゃぐしゃだった。

「頭おかしいんじゃないの!?」

新藤鈴奈は空になったグラスを静かにテーブルへ戻した。

「私が専業主婦かどうか、あなたに何の関係があるの?」

声は冷え切っている。

「自分を何様だと思ってるの。私を品定めできる立場?」

女は怒りでわなわなと震えた。

「あなた――!」

「私が何?」

新藤鈴奈はまっすぐ相手を見据える。

「そんなに口が軽いなら、せめて人並みの話し方くらい身につけたら?」

女の顔色が、青くなったり赤くなったり忙しく変わる。

津田真由が慌てて立ち上がった。

「鈴奈さん、怒らないで。その子も悪気があったわけじゃ――」

「悪気がなかった?」

新藤鈴奈はくすりと笑い、顔を向けた。

「じゃあ、あなたは? あなたには悪気があったの?」

津田真由が息を呑む。

「誕生日に、私の夫と私の娘を呼んだのも、わざとじゃないって言うの?」

さっと、津田真由の顔から血の気が引いた。次の瞬間には、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

稲垣征也の表情が険しく沈む。

「鈴奈、もうやめろ」

新藤鈴奈は彼を振り返った。

「何を?」

冷えた声のまま、なおも言葉を継ごうとした、そのとき――

日織がいきなりテーブルの上のケーキをつかみ、新藤鈴奈へ向かって思いきり投げつけた。

べちゃっ、と鈍い音がした。

生クリームが、服にも髪にもべっとりと張りつく。

「大っ嫌い! 最低!」

日織は顔を真っ赤にして叫んだ。

「なんで真由おばちゃんをいじめるの? なんでうちをこんなふうにしたの? 私とパパと真由おばちゃん、前はちゃんとうまくいってたのに。全部あんたのせいじゃない!」

新藤鈴奈は俯き、自分の身体についたクリームを見た。

白くて、べたついていて、惨めだった。

やがてゆっくり顔を上げる。

頬をふくらませ、怒りでいっぱいの小さな顔。

この子は本当に、稲垣征也によく似ている。

目元も。

怒ったときの表情も。

「稲垣日織」

新藤鈴奈は静かに名を呼んだ。

「自分が何を言ってるのかわかってる?」

日織は一瞬だけたじろいだ。

だが、津田真由が泣いているのを見ると、また意地を張るように顎を上げる。

「真由おばちゃんは、あんたなんかより一万倍やさしい! あんたにママなんて呼んでほしくない。真由おばちゃんがママならいい!」

ぱしん、と乾いた音が響いた。

次の瞬間、新藤鈴奈の平手が日織の頬を打っていた。

日織は頬を押さえたまま、呆然と立ち尽くす。

稲垣征也も目を見開いた。

結婚してから今まで、新藤鈴奈が日織に手を上げたことは一度もない。

ずっと家を守り、母としても申し分ないほどだった。

それが初めて、手を上げた。

打った新藤鈴奈自身の指先まで、小刻みに震えている。

「この一発は」

彼女は深く息を吸い、はっきりと言った。

「母親として、あなたに教える最後のことよ。人を敬うってどういうことか、ちゃんと覚えなさい」

それから顔を上げ、驚きに固まっている津田真由を見る。

「お誕生日おめでとう」

新藤鈴奈はにっこり笑った。

「あなたたち三人、どうか一生そのまま仲よくしてちょうだい」

そう言い残し、彼女は踵を返す。

日織はその背中を見つめ、ひくっとしゃくり上げながら泣いた。

物心ついたころから、ママは一度だって自分を叩いたことがなかった。

叩くどころか、きつい言葉さえほとんど言われたことがない。

転んで膝をすりむけば、自分以上に慌ててくれた。

熱を出せば、夜通しつきっきりで看病してくれた。

欲しいものがあれば、できる限り叶えてくれた。

しつけのときだって、いつも何度でも言い聞かせるだけだった。

怒鳴られたことなんて、ほとんどない。

なのに、今は――

頬がじんじんと熱い。

日織は急に不安になって、思わず小さく呼んだ。

「……ママ」

けれど、その背中は最後まで振り返らなかった。

稲垣征也の顔色もまた、ひどく険しいままだった。

「征也……」

津田真由がそっと彼の袖をつまむ。

「ごめんなさい、全部私のせい。ここで誕生日をしたいなんて言わなければ、こんなことにはならなかったのに。鈴奈さん、きっと私を誤解してるわ……」

稲垣征也は唇を引き結んだまま、何も言わない。

「鈴奈さんを責めないで」

津田真由はやさしく言葉を重ねる。

「きっと、あなたのことが大事すぎるだけなの。こうでもしないと気を引けないって思ったのかもしれないわ。女の人って、そういうところあるもの。だから怒らないであげて」

気を引きたい。

その言葉に、稲垣征也の眉がわずかに動いた。

そうだ。

これまでだって、新藤鈴奈はずっとそうだった。

慎重に彼の顔色をうかがい、どうにかして自分を見てほしいと必死だった。

今日の騒ぎだって、彼が真由の誕生日を祝っているところを見て、面白くなかっただけなのかもしれない。

そう思うと、稲垣征也の表情はわずかにやわらいだ。

「お前のせいじゃない」

彼は津田真由に言う。

「身体が弱いんだ。余計なことは考えるな。送らせる」

津田真由はおとなしく頷いた。

その瞳の奥で、冷たい光がひとすじ瞬いた。

……

夜10時。

稲垣征也は日織を連れて帰宅した。

リビングは真っ暗だった。

何気なくスイッチを入れると、視線がローテーブルの上で止まる。

離婚協議書。

稲垣征也はそれを手に取り、数ページめくった。

案の定、妻の署名欄にはすでに名前が入っている。

午後、彼女が離婚したいと言ったとき、彼は本気にしていなかった。

女というものは、一時の感情で騒ぐこともある。

放っておけば、そのうち落ち着くと。

だが、本当に署名までしていたとは。

稲垣征也は協議書をテーブルへ放り投げ、なぜか胸の奥に苛立ちが湧いた。

「パパ」

日織が遠慮がちに彼を見上げる。

「ママ……ほんとに出ていっちゃったの?」

稲垣征也は答えず、そのまま二階へ上がった。

クローゼットを開ける。

新藤鈴奈のものは、見事になくなっていた。

胸の内の苛立ちは、さらに強くなる。

彼は冷たく笑った。

こんなやり方で自分を脅せるとでも思っているなら、ずいぶんと思い上がったものだ。

それ以上深く考えることもなく、彼は浴室へ入った。

午前2時。

稲垣征也は激しい痛みに叩き起こされた。

両脚がずきずきと疼く。

あの事故の後遺症だ。

一定の間隔で、発作のように起こる。

ひどいときは、骨の隙間に無数の針をねじ込まれるような痛みになる。

そんなときは、新藤鈴奈に脚を揉んでもらわなければ治まらなかった。

「新藤鈴奈」

呼んでも、返事はない。

そこでようやく思い出す。

新藤鈴奈は、もういないのだ。

苛立ちがこみ上げる。

痛みをこらえながら身体を起こし、引き出しを開けた。いつもならここに鎮痛剤が入っている。

だが今日は、空だった。

稲垣征也の眉間にさらに深い皺が刻まれる。

脚の痛みは増すばかりで、仕方なく新藤鈴奈へ電話をかけた。

電源が入っていない。

彼は一瞬止まり、別の番号からかけ直す。

やはり、つながらない。

もう一度。

それでも同じ。

そのとき、稲垣征也はひとつの事実に気づいた。

――ブロックされたのだ。

スマホ画面に映るその番号を見つめたまま、彼の胸は激しく上下する。

自分をブロックしただと――?

稲垣征也はベッドにもたれ、スマホを強く握りしめた。

どれほどそうしていたのか。

やがて彼は冷笑を漏らす。

「どこまで意地を張れるか、見ものだな」

そのころ一方で、新藤鈴奈は昼間の津田真由の言葉が引っかかっていた。

少し考えた末、三浦江成に電話をかける。

相手はすぐに出た。

「先輩、一つ聞きたいんですけど……今回の脚本、ヒロインって何人いるんですか」

「何人って、当然一人だろ」

「じゃあ、津田真由もこの作品に出るんですか?」

三浦江成は少し考え込んだ。

その名前にあまり覚えがないらしく、しばらくしてから思い出したように言う。

「ああ、出るよ。お前の侍女役でな」

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