第4章
新藤鈴奈は、このオーディションに並々ならぬ思いを懸けていた。
朝早く起きて身支度を整えると、そのまま金月ビルへ向かう。
巨大なオーディション告知ポスターがひときわ目を引いていた。三浦江成にメッセージを送ってから、鈴奈はその前に立ち、しばし眺め入る。
そのとき、背後でふいにクラクションが鳴った。
振り返ると、稲垣征也の車から降りてくる津田真由の姿が見える。
――稲垣征也が、わざわざ自分で送ってきたの?
ずいぶんとご熱心なこと。
「鈴奈、どうしてここに?」
津田真由は彼女の背後のポスターに目をやり、眉を上げた。
「そういえば、あなた演技を勉強してたのよね。まさか、あなたもオーディションに来たの?」
鈴奈は相手にする気にもなれず、ただ冷ややかに見返した。
その反応だけで察したのか、津田真由の口元にふっと笑みが差す。
「今回の監督は、あの三浦江成よ。誰でも入り込めるような現場じゃないの」
要するに、あなたの出る幕じゃない――そう言いたいのだ。
鈴奈は唇の端をわずかに上げた。
「あなたが入れる現場なら、そこまで敷居も高くなさそうね」
冷えた声音のまま、さらりと返す。
津田真由の表情が一瞬だけ固まり、目の奥に陰が落ちた。
だが、駐車を終えて戻ってくる稲垣征也の姿が視界に入ったのだろう。彼女はすぐに目を伏せ、唇をきゅっと噛みしめる。次の瞬間には、いかにも傷ついたような顔を作っていた。
「鈴奈、もしかして昨夜のこと、まだ怒ってるの? 日織の代わりに謝るわ。あの子はまだ子どもなんだから、そんなに本気で怒らないであげて」
稲垣征也は、それまでのやり取りを聞いていない。
耳に入ったのは、鈴奈の刺々しい言葉だけだった。
眉をひそめると、津田真由の背後に立つ。
「いい加減にしろ。日織はお前の子どもだろう。自分の娘にまで張り合うつもりか」
理由も聞かずに責め立てられ、鈴奈の胸はすっと冷えた。
言い返そうとした、そのとき。
「鈴奈」
やわらかな男の声が飛んでくる。
三浦江成が小走りでやってきた。白のカジュアルウェアに、首からスタッフカードを下げている。
まるで津田真由たちの存在が目に入っていないかのように、鈴奈へ穏やかに声をかけた。
「そろそろ始まる。先に上へ行こう」
こんな二人のせいでオーディションに響くのはごめんだった。
鈴奈は唇を引き結び、小さくうなずく。
そのまま立ち去ろうとした瞬間、手首をぐいとつかまれた。
眉を寄せて振り返ると、稲垣征也の冷えた黒い瞳がそこにある。
――怒ってる?
何に対して怒っているのか、鈴奈にはわからなかった。
津田真由は三浦江成をじっと見つめ、やや驚いたように声を上げる。
「鈴奈……あなた、三浦監督と知り合いなの?」
ただの知り合いどころではない。
監督本人がわざわざ迎えに来るなんて、彼女よりずっと顔が利くということだ。
三浦江成は、ようやくその場の空気の妙さに気づいたように微笑んだ。
「鈴奈は同じ学校の後輩なんです。それに、今回のヒロイン役は俺が直接お願いしました」
ヒロイン。
その一言に、津田真由の指先がぎゅっと強く握られた。笑顔もわずかに引きつる。
「鈴奈、そんな話、一度もしてくれなかったじゃない。三浦監督、私も今日オーディションなんです。津田真由といいます」
三浦江成は礼儀として軽くうなずいたものの、その眼差しはどこか一歩引いていた。
「ああ、副監督から名前は聞いてます。ヒロインの侍女役のオーディションでしたよね」
無言の平手打ちだった。
津田真由は、さすがに作り笑いを保てなかった。頬に恥辱の赤みがさっと広がる。
それでも三浦江成は気づいていないふうで、鈴奈へ向き直った。
「鈴奈、行こう」
鈴奈は手を引こうとした。
だが、稲垣征也は離すどころか、逆にいっそう強く握り込んでくる。
「放して!」
鈴奈は歯を食いしばり、男を睨みつけた。
稲垣征也は薄い唇を引き結んだまま、不快さをにじませる声で問いただす。
「オーディションのこと、なぜ俺に相談しなかった」
――笑わせないで。
鈴奈は皮肉げに言い返した。
「私のことが、あなたに何の関係があるの?」
稲垣征也が詰まる。眉間には深い皺が寄った。
「俺はお前の夫だ」
「もうすぐ違うでしょ」
鈴奈は一瞬もためらわずに言い切った。
稲垣征也の目が揺れる。
――本気なのか。
三浦江成が一歩前に出て、稲垣征也の手にそっと触れた。
声音は穏やかだが、はっきりとした強さがある。
「手を放してください。鈴奈が痛がっています」
三人のあいだに、死んだような沈黙が落ちた。
その張りつめた空気の中、津田真由は自分だけ取り残されるのを嫌ったのか、そっと稲垣征也の腕に手を絡める。
「征也」
ただ名前を呼んだだけ。
それだけで、稲垣征也はおとなしく手を放した。
鈴奈の胸がずきりと痛んだ。
熱くなった目元を悟られまいと俯き、そのまま三浦江成の腕を引いて足早にその場を離れる。
稲垣征也は、二人の背中が遠ざかっていくのを重い眼差しで見送っていた。
その瞳の奥には、濁った暗がりが沈んでいる。
津田真由は、彼の中に生まれた執着と、隠しきれない嫉妬を見逃さなかった。
目の底に冷たい光を走らせ、わざとらしく口を開く。
「三浦監督がわざわざ鈴奈をヒロインに呼ぶなんて、よほど特別な関係なのね。残念だわ。私、この脚本すごく気に入ってたのに」
稲垣征也は指先を擦り合わせ、冷たく言い放つ。
「ヒロイン? 監督一人で決められることじゃない」
大したことをすると思えば、結局は若い監督に取り入っただけか。
映画に出たいなら、自分に頼ればいいものを。
わざわざ他の男を使って気を引こうとしている。
――なら、見ていればいい。
本当にそのヒロインになれるのかどうか。
鈴奈は長いこと演技から離れていた。
三浦江成に励まされても、不安は拭えないままだった。
待ち続けて、ようやく連絡が来る。
けれど、それは悪い知らせだった。
オーディション、不合格。
「俺のほうでもう一度掛け合ってみる。だから……そんなに落ち込むな。少し待っててくれ」
電話の向こうで、三浦江成はひどく言いにくそうに言葉を選んでいた。
覚悟はしていた。
それでも実際に聞かされると、鈴奈の胸にはやはり失望が広がる。
それでも無理に笑ってみせる。
「先輩、私、そんなに弱くありません」
「本当に、お前のせいじゃないんだ」
三浦江成は、彼女を傷つけまいとするような声で続けた。
「稲垣グループがこの作品に出資した。ヒロインは津田真由に決まった」
その瞬間、冷たいものが胸の奥へ流れ込んだ。
オーディションに落ちたことより、ずっと寒い。
稲垣征也のせいで。
実力で負けたのなら、まだ納得もできた。
けれど、こんな露骨な報復じみたやり方は、吐き気がするほど気分が悪かった。
「鈴奈。この件は俺がもう一度動く。この作品、お前がヒロインじゃないなら、俺は撮らない」
三浦江成は、はっきりそう言い切った。
鈴奈は息を整え、静かに答える。
「先輩、ありがとうございます。でも、私のために誰かと揉めないでください。きっと、縁がなかったんです」
通話を終えると、そのままタクシーを拾って稲垣グループへ向かった。
行く手を阻まれることはなかった。
まるで稲垣征也が、彼女が来るのを最初からわかっていたかのように。
オフィスの扉を押し開ける。
社長椅子に座る男を見据え、鈴奈は怒りを押し殺した声で問いただした。
「稲垣征也。わざとでしょう」
稲垣征也は書類から目を上げ、細長い目をわずかに眇める。
声はどこまでも無造作だった。
「真由にはその役が必要だ。あいつに残された時間は少ない。病人相手に張り合う必要はないだろう」
また譲れと言う。
もう、うんざりだった。
鈴奈は離婚協議書を取り出し、机の上に叩きつけるように置いた。
目を赤くし、掠れた声で言い放つ。
「張り合わないわ。だから離婚しましょう」
どこまでも津田真由を優先したいなら、それでいい。
離婚して、その席を丸ごと空けてやればいいのだ。
目の前にまた差し出された、署名済みの離婚協議書。
稲垣征也の瞳がわずかに縮む。
整った顔立ちから、温度がすっと消えた。
「新藤鈴奈、いい加減にしろ」
鈴奈の目は揺らがない。
「本気よ」
女の視線に冗談の色がひとつもないのを見て、稲垣征也の怒りは頂点に達した。
彼は協議書をひったくると、その場で真っ二つに引き裂く。
「俺が同意しない限り、離婚なんてあり得ない」
