第5章
社長室に、しばし沈黙が落ちた。
実りのない言い争いに、新藤鈴奈は心底疲れきっていた。ひとつ後ろへ下がり、冷えた声で告げる。
「私は必ず離婚するわ。裁判になっても、絶対に離れる」
そう言い残すと、稲垣征也の怒りに満ちた顔など振り返りもせず、彼女は稲垣グループを後にした。
家へ戻ってからも、一日じゅう気力が湧かなかった。
午後になってようやく、何気なく開いたネットニュースが目に入る。
三浦江成、降板――
鈴奈は息をのんだ。
すぐにでも三浦江成へ電話をかけようとした、その矢先。先に相手から着信が入る。
彼女は慌てて通話を取った。
「先輩、降板したんですか? 私のせいですか?」
電話の向こうで、少し間があった。
やがて三浦江成の声が、低く静かに響く。
「ごめん、鈴奈。主演は津田真由に決まった。だから俺は監督を降りた。資本のご機嫌取りしかしない現場に、これ以上いる意味はないと思ったんだ」
新藤鈴奈は言葉を失った。
胸の奥に、じわりと罪悪感が広がっていく。
先輩は、自分に巻き込まれたのだ。
三浦江成ほどの知名度があれば、制作側だって簡単には切れない。
自ら降りたのは事実なのだろう。けれど、その裏に稲垣征也の意向がまったく絡んでいないとは思えなかった。
込み上げる後ろめたさが頂点に達した、その瞬間。
鈴奈の中で、ふっと何かが決まる。
「先輩」
彼女は静かに口を開いた。
「一本、脚本があるんです。見てもらえませんか」
芸能界に足を踏み入れかけて、結局引き返した。
後悔がなかったといえば、嘘になる。
それでも娘や稲垣征也の顔を見るたび、自分の選択には意味があったのだと、そう思い込もうとしてきた。
ただの主婦になって、自分を見失ってしまわないように。
そのため鈴奈は、誰にも告げず、ひそかに脚本を書き続けていた。
三浦江成にそれを差し出すとき、胸の内は不安でいっぱいだった。
だが、最後まで読み終えた彼は、驚いたように目を上げた。
「……これ、君が書いたのか?」
鈴奈はうなずく。
コーヒーカップの縁を指先でそっとなぞりながら、おずおずと尋ねた。
「私のせいで、先輩まで仕事を失わせてしまったから……せめてこの脚本で埋め合わせができたらって思って。映像化する価値、ありますか?」
「ある。どころか、ものすごくある」
三浦江成の目が、はっきりと熱を帯びる。
脚本の構成、物語の核、映像にしたときの強み――彼はひとつひとつ丁寧に分析し、自分がぜひ監督をやりたいとまで言ってくれた。
その反応に、鈴奈はようやく強張っていた肩の力を抜く。
ほっと息をつき、小さく笑った。
「先輩、業界にお知り合いも多いですよね。配役は全部お任せします。この脚本は、お詫び代わりということで。資金面も、私が出せます」
稲垣征也は冷たい夫だったが、金銭のことで苦労させられたことはない。
一本の作品を立ち上げるだけの蓄えなら、彼女にも十分あった。
三浦江成は、意外そうに目を瞬かせる。
「自分で主演をやるつもりはないのか?」
「私が……?」
鈴奈は目を丸くし、それから少しためらった。
「できるでしょうか」
彼女が脚本を持ち込んだのは、三浦江成にもう一度撮れる場を作りたかったからだ。
自分がその舞台に立つことまでは、考えていなかった。
「何言ってるんだ」
三浦江成はきっぱりと言う。
「この前のオーディション、ちゃんと見てた。芝居は細やかだったし、君は生まれつきの役者だよ。それに、これは君の物語だろ。自分で演じたいと思わないのか?」
思わないはずがない。
新藤鈴奈は、当然そう思った。
迷いのないその眼差しに背中を押され、彼女はふっと口元を緩める。
そして、まっすぐ手を差し出した。
「じゃあ、よろしくお願いします」
鈴奈の周囲では、怒涛の勢いで新しい制作体制づくりが始まった。
だがその一方で、別の場所では火に油が注がれていた。
三浦江成は映像業界でも名の知れた監督だ。
その彼が途中降板したという報道は、あっという間に各メディアの見出しを飾った。
さらに深掘りする記事が出るにつれ、津田真由の名まで浮上する。
もともとは脇役だった彼女が、いつの間にか主演へ昇格していた件は、隠し通せなかった。
資本が津田真由を推したがり、妥協を嫌う三浦江成がそれに反発して衝突、ついには降板したのではないか――
そんな憶測が一気に拡散する。
ネットは連日、資本によるごり押しへの非難であふれた。
津田真由はトレンドに名を連ね、何日も叩かれ続けることになる。
耐えきれなくなった津田真由は、稲垣グループへ駆け込み、稲垣征也の前で涙をこぼした。
「どうしてみんな、あんなに悪意を向けてくるの……? 私、何もしてないのに。征也、鈴奈に話してくれない? 主演の座は譲るから、せめて私のことを少し弁解してほしいの」
稲垣征也は眉間をきつく寄せた。
息も詰まりそうに泣く彼女を見ているうち、胸の内に怒りがどす黒く膨れ上がっていく。
新藤鈴奈は、どうしてこうも聞き分けがないのか。
なぜ病人ひとり相手に、ここまで張り合おうとするのか。
怒りを押し殺し、彼は低く言う。
「その役は俺がお前にやったものだ。誰にも譲る必要はない。俺が片づける。この数日はスマホも見るな。待ってろ」
津田真由は涙を拭い、いかにも健気に首を振った。
「だめ。鈴奈だって、わざとじゃないのかもしれないし……私のせいであなたが困るのは嫌。この作品、もう出なくてもいいから」
「もういい」
稲垣征也の声は重かった。
「俺が必ずけじめをつける」
その頃、新藤鈴奈は地に足がつかないほど忙しかった。
脚本自体に知名度はない。
それでも三浦江成という看板があるおかげで、オーディションにはそれなりの数の役者が集まってきていた。
ただし、集まった役者の実力は玉石混交だった。
一人ひとり丁寧に見極めるしかない。
夜になって、くたくたの身体で家に戻る。
車を降りたそのとき、玄関先に立つ人影が目に入った。
見たくもない相手だった。
そのまま無視して通り過ぎようとしたが、稲垣征也はそれを許さない。
一歩前へ出て、彼女の行く手を塞ぐ。
高い影が、すっと鈴奈を覆った。
落ちてきた声は低く、冷たい。
「話がある」
新藤鈴奈には、もう彼と揉めるだけの気力すら残っていなかった。
ひとつ後ろへ引き、淡々と見上げる。
「離婚の話じゃないなら、話すことはないわ」
「離婚の件なら前にも言ったはずだ。俺は署名しない」
稲垣征也は唇を引き結び、彼女の突き放すような表情を見つめた。瞳の奥が、わずかに沈む。
「なら、話は終わりね」
そのまま脇を抜けようとした鈴奈の腕を、彼はぐいと引き戻した。
目つきは昏く、声には命令が混じる。
「最近、真由はお前のせいで叩かれ続けている。釈明を出せ。自分の意思で降板した、真由には関係ないと書け」
新藤鈴奈は、ふっと笑った。
やはりそうだ。
津田真由のためでもなければ、この男がわざわざ自分のところまで来るはずがない。
可笑しかった。
彼の望みどおり主演の座は譲った。
それでもまだ足りないのだ。
彼の中で自分は、目的のためならどんな手でも使う女に映っているのだろうか。
鈴奈はわずかに顎を上げた。
逆光の中、男の整った顔は陰をまとっている。けれど、不思議と少しも怖くなかった。
「悪いけど、あなたたちの茶番に付き合ってる暇はないの。私は忙しいわ。こんなくだらないことで、二度と来ないで」
稲垣征也の目がすっと細くなる。
次の瞬間、彼は鈴奈の手首を強く掴んだ。
「工作して世論を煽るのは違法だ。今なら、自分から認める機会をやる。これ以上俺に調べさせるな。困るのはお前だ」
新藤鈴奈は、皮肉げに口元を歪めた。
身に覚えのない罪など、少しも怖くない。
手を振りほどき、肩をすくめる。
「好きに調べれば? ただ、一つ忠告してあげる。弁護士を雇うなら、何でもできる人を選んだほうがいいわ。できれば離婚訴訟に強い人をね。私、裁判で離婚するつもりだから」
稲垣征也は眉をひそめた。
また離婚だ。
本気でそれを切り札にできると思っているのか。
それとも、自分なら脅せるとでも思っているのか。
――いいだろう。
そこまで言うなら、望みどおりにしてやる。
そう決めたのか、彼の表情はさらに冷えきっていく。
「いいだろう。離婚したいなら叶えてやる」
そこで、ひと呼吸。
続いた声は、氷のようだった。
「その前に、真由に謝れ」
