第一章
「絵里おばさん! 絵里おばさん、大丈夫!?」
息子の瑞樹の声だ。泣きじゃくっている。
結城紗夜は、床の上でゆっくりと頭を巡らせた。
ピアノ教室は黒煙が充満し、炎が東側のカーテンを伝って天井へと燃え広がっている。
倒れた机が両脚を圧迫していた。
腕で身体を支えようと試みるが、ぴくりとも動かない。
額の傷口から血が滲み、生温かい液体がこめかみを伝ってゆっくりと流れ落ちていく。
少し離れた場所で、瑞樹はすでに白石絵里のそばに駆け寄り、小さな手で彼女の肩を何度も叩いていた。
「絵里おばさん、びっくりしたよ。大丈夫?」
絵里の腕にはうっすらと赤い痕がある。軽い火傷のようだ。
彼女は壁に寄りかかり、か細い声で答える。
「大丈夫よ、瑞樹ちゃん……」
紗夜は息子を見つめたまま、声を出さなかった。
瑞樹はようやく紗夜の方を一瞥した。だが、それきりですぐに視線を戻し、再び絵里の手を握った。
五年。五年間、心を込めてこの子を育ててきたというのに、まさかこれほど冷たい態度をとられるなんて。
紗夜は俯き、床に落ちた自らの血が、少しずつ広がっていくのをただ見つめていた。
今日、ここに来るべきではなかったのかもしれない。
今朝、家を出る前に瑞樹ははっきりと言ったのだ。「ママは来ないで。服がダサいから、クラスのみんなに笑われちゃう」と。
紗夜はこれまで、瑞樹の要求には何でも応えてきた。
五年前、双子を出産した時のことだ。姉の遥は無事に生まれたものの、その後、紗夜は突然大出血を起こした。手術での救命措置に時間がかかったせいで、弟の瑞樹は子宮内で長く低酸素状態に置かれてしまった。瑞樹は姉よりずっと虚弱な状態で生まれ、体重も軽く、保育器の中で丸一ヶ月を過ごした。
自分の体のせいで、息子を苦しめてしまった。その考えは心の奥深くに根を張り、決して抜けることはなかった。だからこそ、瑞樹に対しては特に慎重に、気を遣って接してきたのだ。
今日、瑞樹が楽譜を忘れたと聞き、発表会に響くことを案じて幼稚園まで届けに来た。届け終えた後も、母親として一度も息子のピアノの発表会を見たことがなかったため、もう少しだけ、と欲張ってしまった。
そして、火事が起きた。
ほどなくして、黒沢辰が飛び込んできた。
紗夜の夫であり、黒沢ホールディングスの支配者。彼は大股で敷居を跨ぐと、部屋の中を一瞥し、紗夜の上には一秒と視線を留めず、彼女を通り越してまっすぐ絵里の元へと向かった。
「絵里、怪我はどこだ?見せろ」
彼はしゃがみ込み、紗夜が一度も聞いたことのないような、ひどく真剣な声で尋ねた。
「大したことないの……腕が少しだけ……」絵里はわずかに眉を寄せ、弱々しい声で答える。
瑞樹が父親を見上げ、言った。「パパ、絵里おばさんは体が弱いから、先に外に連れて行こう。ママは丈夫だから、大丈夫だよ」
紗夜は、目を見開いた。
五歳の子どもが、何の躊躇いもなく、当然のことのようにその言葉を口にした。
辰は止めなかった。立ち上がると、しっかりと絵里を支える。
絵里は小声で「だめ……先に紗夜さんを……」と言った。
「あいつは大丈夫だ。行くぞ、もうすぐ消防が来る」
瑞樹は辰の服の裾を掴み、紗夜には一瞥もくれずに外へと歩き出す。
出入口で、絵里が振り返った。
彼女は何も言わない。ただ、辰に握られたその手を、何気ない仕草のようにそっと持ち上げ、紗夜の視界にちょうど入るように、そのうっすらと赤い火傷の痕を見せつけた。
そして彼女はすぐに前を向き、辰の肩に頭をこすりつける。
三人の後ろ姿が、黒煙の中に消えていった。
紗夜はゆっくりと、再び床に頭を預けた。
白石絵里は、かつて辰が焦がれた女性だった。当時、絵里の海外留学がきっかけですれ違った二人だったが、その後、辰は紗夜と出会い結婚した。双子が生まれて間もなく、絵里が帰国した。辰は言った。「絵里は一人、異国の地でずっと大変だったんだ。体も弱いし、お前も少しは多めに見てやってくれ」と。
紗夜はずっと、我慢し続けてきた。
絵里が頻繁に「子どもたちに会いに」と家を訪れることも、辰が彼女を微に入り細に入り世話することも、瑞樹が「絵里おばさん」にますます懐いていくことも。たまに紗夜がそれとなく口にすると、辰は眉を顰めてこう言った。「考えすぎじゃないのか?彼女はもともと体が弱いんだ。俺が面倒を見て、何か問題があるか?」
やがて彼女は何も言わなくなった。言っても無駄だし、かえって自分が理不尽なことを言っているように思われるだけだったから。
黒煙はもう、かなり低い位置まで垂れ込めていた。
紗夜は天井を見つめながら、意識が少しずつ遠のいていくのを感じた。
死に瀕すると走馬灯を見るという。人生で最もやりたかったこと、最も後悔していることが蘇るのだと。
かつての自分は、全固体電池の分野で最も若い研究者だった。メディアは「リケジョの女神」と囃し立てた。机の上には博士課程への合格通知が置かれ、指導教官は前途洋々だと励ましてくれた。
そんな時、妊娠がわかった。
辰は言った。「子供には母親が必要だ」
義母は言った。「学歴がいくら高くたって、何になるっていうの?女は家庭に入るのが一番よ」
彼女は、諦めた。
博士号を、研究室を、本来そこにあるはずだった自分の道を。それが家族のための選択であり、自分の犠牲がこの家をより完全なものにすると信じていた。
六年。
この六年間、彼女は自らをこの家が円滑に回るための歯車に変え、静かに、誰にも気づかれずに、すべてを支えてきた。
そこへ絵里が戻ってきた。一年も経たないうちに、甘え上手で、弱さを見せるのがうまく、男の前で涙を流せるあの女は、紗夜の六年間をすべて無に帰した。
割に合わない。
本当に、割に合わなかった。
意識が途切れかけた瞬間、遥のことを想った。
もし自分がこの家で最も疎まれている存在だとしたら、遥は二番目だろう。義母は男尊女卑で、目の中には瑞樹しかいない。遥はただ、大人しく言うことを聞いていればいい、という存在だった。
遥を、第二の自分にしたくはない。
次に目を開けた時、そこは病院の白い天井だった。
指を動かすと、包帯が巻かれているのがわかる。頭にもガーゼが当てられていた。個室の病室で、窓の外はすでに暗くなっている。誰もいない。コップは空で、枕元には何も置かれていなかった。
紗夜は横を向き、誰もいないがらんとした病室をしばらくぼんやりと眺めていたが、やがて体を起こし、松葉杖を突いて、水を貰うために病室を出た。
廊下を歩いていると、隣の特別室から声が漏れてくる。
笑い声、優しいやりとり、そして瑞樹の甲高い声。
紗夜の足が、自然と遅くなる。
ドアには、わずかに隙間が開いていた。
中を覗き込むと――豪華なベッドに絵里が横たわり、辰がベッドの縁に腰掛けて、無言のまま真剣な表情でリンゴの皮を剥いている。瑞樹はベッドのそばに身を乗り出し、絵里の腕にあるうっすらと赤い火傷の痕に顔を近づけ、そっと息を吹きかけていた。
「絵里おばさん、まだ痛い?僕がふーふーしてあげる」
「大丈夫よ、瑞樹ちゃん。すぐに良くなるから」
「絵里おばさん、えらいね!今度は僕が絵里おばさんを守ってあげる!」
絵里がくすくすと笑う。辰が顔を上げ、口元が微かに緩んだ。
紗夜は廊下に立ったまま、動けなかった。
頭のガーゼが鈍い痛みを訴え、松葉杖のグリップが手のひらに食い込む。
「ママ!」
背後から抱きつかれ、松葉杖ごと倒れそうになるのを必死で堪えた。
遥だった。
目は真っ赤に泣き腫らし、小さな顔にはまだ乾いていない涙の跡があった。
遥が今日、体調不良で幼稚園を休んでくれて、あの火事に巻き込まれずに済んだことに、紗夜は安堵した。
「ママ、起きたんだね。ずっと待ってたんだよ……。みんな絵里おばさんのところに行っちゃって、誰もママのそばにいないから……。お部屋に行ったらママ、まだ寝てて、起こしちゃいけないと思って……」
紗夜は俯き、娘を抱きしめた。
隣の部屋からは、まだ楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
遥は小さな顔に涙の跡を残したまま、それでも必死に紗夜に笑顔を見せた。紗夜は手を伸ばし、娘の目尻の涙をそっと拭う。
「遥」
彼女の声はとても小さかったが、真剣だった。
「ママと二人だけで、暮らさない?」
