第二章

遥には、母がなぜそんなことを訊くのか分からなかったが、それでも頷くことに迷いはなかった。

自分が祖母に好かれていないことは、とうに気づいている。祖母の目はいつも弟の瑞樹ばかりを追いかけていた。おやつを分ける時だって、弟の分がいつも一番大きくて、おもちゃは弟が飽きてようやく自分に回ってくる。そんなこと、ママに言ったことはない。ママがもう十分に疲れていることを知っていたからだ。

遥はこくりと力強く頷いた。「うん、ママ。遥はいいよ」

紗夜は娘を強く抱きしめた。

幸い、この子がいる。

これからは、自分のこの手で、遥に穏やかな家庭を築いてあげなければ。

その時だった。隣のVIP病室のドアが、不意に開かれた。

中から姿を現したのは辰だった。母娘に一瞥をくれると、すぐに視線を逸らす。その口調には、どこか事務的な気遣いが滲んでいた。

「目が覚めたのか。怪我はどうだ?」

紗夜は松葉杖に体重を預け、彼に顔を向けようとはしなかった。

「かすり傷です。大したことはありません」

それ以上話す気にはなれず、紗夜は遥を連れて自分の病室へ戻ろうと踵を返した。

病室の中から、絵里の声が聞こえてくる。

「紗夜さん?大丈夫……?怪我がひどいって聞いて、ずっと心配してたのよ……」

甘えた声には、計算された罪悪感が滲んでいた。

紗夜は視線すら向けない。

「心配ご無用。死にはしないわ」

そう言い捨て、前へ進もうとした、その時。

瑞樹が病室から駆け出してきて、紗夜の服の裾をぐいっと引っ張った。小さな眉を寄せ、母親を咎める。

「ママ、なんて失礼なこと言うんだよ!絵里おばさんが心配してくれてるのに、ありがとうも言わないなんて!」

紗夜は歩みを止め、俯き、自分の服の裾を掴む息子の手を見つめた。

小さな手。かつて、この手で自分の指を一本、白くなるほど強く握りしめ、一緒に横断歩道を渡った。だが今、その手は母親である自分を、他人のために責め立てている。

隣で聞いていた辰の顔が、みるみる険しくなっていく。

「瑞樹の言う通りだ。絵里はずっとお前のことを気にかけていたんだぞ。その態度はなんだ?」

紗夜はただその場に立ち尽くす。夫と息子が、当たり前のように絵里の側に立っている。喉の奥から、乾いた笑いが込み上げてくる——この家では、妻の肩を持つよりも、他人の肩を持つ方が当たり前なのだと。

彼女は何も言い返さず、ただ静かに瑞樹へと視線を落とし、一言一言、確かめるように問いかけた。

「瑞樹、ママに教えて——あなたは、ママのことが嫌いなの?」

廊下が、しんと静まり返った。

瑞樹は一瞬、虚を突かれたように固まった。

だが、それも束の間。すぐに顔を上げ、迷いなく頷いてみせる。

「うん。ママは何にもできないし、パパに頼ってばっかりで、全然役に立たないもん」

松葉杖を握る指の関節が、白く浮き上がった。

本当は、答えなんてずっと前から分かっていたような気がする。

それでも、息子の口からその言葉がはっきりと紡がれた瞬間、細い針が不意に心の一番柔らかい場所へと突き刺さったかのようだった。貫くような激痛ではない。じわじわと染み込み、深く沈んでいくような鈍い痛み。

五年間、尽くしてきた結果が、この一言だなんて。

遥は母の手が震えているのに気づき、ぎゅっと握りしめた。

紗夜は娘に目をやり、大丈夫だとでも言うように、力なく首を横に振る。

母親のその無反応な様子が、瑞樹にはさらに不満だったらしい。まるで何度も聞かされて諳んじている台詞を復唱するように、声を張り上げた。

「絵里おばさんの方がすごいよ。自分で自分のことをちゃんとできるし、自立してて、優秀なんだ。僕、絵里おばさんにママになってほしい」

五歳の子どもが、『自立』や『優秀』なんて言葉を使うはずがない。誰に吹き込まれたのかなんて、考えるまでもなかった。

だが、もはやそれを追及する気力もない。追及したところで、何かが変わるわけでもないのだから。

「それにママは全然よくない!」瑞樹の声がさらに大きくなる。溜め込んだ不満をぶちまける好機とでも思ったのだろう。「美味しいものも食べさせてくれないし、面白いおもちゃでも遊ばせてくれないし、何でも僕を縛り付けるんだ。絵里おばさんはそんなことしない。何でも僕の言うことを聞いてくれるもん」

紗夜は俯いたまま、何も言わなかった。

瑞樹が生まれてすぐ、一ヶ月を過ごした保育器のことを思い出す。ガラスの向こう、小さな体に無数の管が繋がれ、手を伸ばしても指先が触れることさえ叶わなかったあの日々。アレルギー源を調べるための血液検査のたび、細い腕に針が刺さる瞬間、瑞樹は火がついたように泣き叫び、自分はそんな息子を抱きしめながら、彼以上に涙を流した。

冷蔵庫のドアに三年間貼り続けたリスト——海老、蟹、ナッツ類、特定の乳製品。医者から告げられた品目を一つ一つ書き写し、スーパーへ行くたびに、棚の前で商品の裏にびっしりと書かれた原材料名を睨みつけるように確認した。小さな文字の一行たりとも見落とすまいと、神経をすり減らした。

瑞樹の言う『食べさせてくれない』も、『遊ばせてくれない』も、決して理不尽な束縛などではなかった。彼がまだ気づきもしない危険からその身を守るため、見えないところで費やしてきた細やかな労力のすべてだった。

その苦労が、息子の記憶の中では『ママは何でも僕にやらせてくれない』という一言に変わってしまった。

胸をえぐられるような痛みが走り、ゆっくりと引き抜かれていく。

それでも紗夜の表情は変わらない。その鈍い痛みを静かに飲み込み、今度は辰へと視線を向けた。

「じゃあ、あなたは?」声は軽いのに、やけにはっきりと響いた。「私のこと、もう妻として好きじゃないの?」

辰は彼女の視線を受け止め、唇を動かしたが、言葉は出てこなかった。

そもそも、そんな問いに真剣に答える価値があるとも思っていなかった。

妻とは、子どもの面倒をみて、家事をこなし、静かにその場所にいればいい存在のはずだ。

黒沢夫人の名を与え、何不自由ない暮らしをさせてやっている。これ以上、何を不満に思うことがあるというのか。

なぜ、こんな無意味な質問を繰り返すのか。

だが、紗夜の視線は真っ直ぐに自分を捉え、逸らそうとしない。答えを待っているようでもあり、最後の機会を与えているようでもあった。

沈黙は気まずいほどに長引いていく。

辰は眉をひそめ、ぷいと顔を背けた。

その沈黙は、どんな言葉よりも雄弁で、そして残酷だった。

彼の逸らされた横顔を見つめ、一言の施しさえ与えようとしない姿に、紗夜の心に残っていた最後の温もりも、完全に冷え切ってしまった。

ふっと、低い笑い声が漏れた。温かさの欠片もない、骨の髄から滲み出るような疲労を伴った笑い声だった。

「みんながそう望むなら、その願い、叶えてあげる」

まるで他人事のように、淡々とした声だった。

「黒沢辰さん、離婚しましょう」

病室のドアの前で、絵里が口元を覆う。うろたえたような表情を浮かべて。

「紗夜さん、私が言ったこと、本気にしないで……!私が悪いの、私が……」

辰は苛立たしげに眉根を寄せた。

「馬鹿なことを言うな。また離婚か。俺が信じるとでも思ったか?」

紗夜はその言葉を静かに聞いていた。

以前の離婚は、彼の気を引くための切り札だった。眉をひそめて「馬鹿なことを言うな」と一言でも返してくれれば、まだ愛されているのだと錯覚できた。何度も試し、何度も失望し、それでもやめられなかった——有り金をすべて失ったと認めたくない、博打打ちのように。

でも、今回は違う。

脅しではない。

通告だ。

紗夜は絵里には目もくれず、真っ直ぐに辰を見据えた。

「親権のことも、きちんと話しましょう」

一拍置き、彼女は感情の乗らない声で告げる。

「瑞樹はあなたに。遥は、私が引き取ります」

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