第二十九章

辰は彼女の顎を掴んだ。力は強くないが、彼女が容易に顔を背けられないよう、的確に押さえられている。

 

「離婚届はまだ出していない」

 

彼の声は低く、事実を告げるだけの静かな口調だった。

 

「法的には、お前は今も俺の妻だ」

 

紗夜は抵抗しなかった。

 

ただ彼を見つめる。その瞳に怒りも、恐怖もない。あるのは、彼に得体の知れない疎外感を抱かせる、奇妙な感覚だけ。まるで分厚い透明なガラスを一枚隔てているかのようだった。何もかもが見通せるのに、何一つ触れることができない。

 

「白石絵里さんと一緒にいた時、私たちの関係が法律で守られているなんて、考えたことがあったかしら?」

 

彼女の声は平坦で...

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