第三章
辰の表情が、みるみるうちに険しくなる。
「いい加減にしろ」
紗夜を睨みつけ、苛立ちを隠そうともしない低い声で言い放った。
「離婚、親権、よくもまあそんなに軽々しく……遊びだと思ってるのか?」
紗夜は彼に視線を向けず、俯いたまま遥の服の襟を直してやる。
「本気よ。言ったこと、全部」
「本気だと?」辰は鼻で笑い、一歩踏み出した。「結城紗夜、瑞樹が生まれた時、お前は保育器の前で一ヶ月も張り付いて、目を真っ赤に腫らしてたよな。それで今更、息子の親権はいらないだと?」
この女のことは、知り尽くしている。
この数年、紗夜が離婚を口にしたのは決まって、拗ねて気を引こうとしている時だけだった。瑞樹を手放せるはずがない。この家を捨てられるはずがない。そんな母親が、本気で息子を諦めることなどできるわけがないのだ。
これもまた、いつもの『駆け引き』なのだろう。「親権はいらない」と切り出すことで、俺を屈服させたいだけだ。
「その手は食わない」辰の瞳に、うんざりとした色が浮かぶ。「何年経っても、そんな陳腐な手でしか気を引けないのか、お前は」
その言葉には、絶対的な自信があった。どうせ三日も持たない。どうせ夜には一人で部屋にこもり、泣いているに決まっている。そしてどうせ、翌朝には目を腫らしながら俺の朝食を運んでくるのだ。
六年間、彼女が本気でここを去ったことなど一度もなかった。今回だけが、例外であるはずがない。
紗夜が、ようやく彼を見上げた。
その瞳には、彼が予想していたような震えも、傷ついた色もなかった。何の感情も映さず、まるで凍てついた湖面のようだ。彼の姿さえ、そこには映らない。
「相談しているのではありません、黒沢さん」彼女の声はとても静かだったが、一言一言がはっきりと響いた。「これは、通告です」
辰は眉をひそめ、なおも何かを言おうとした。だが紗夜はすでに背を向け、遥の手を引いて自分の病室へと歩き出していた。その足取りに、迷いは微塵もなかった。
辰は思わず口を開きかけたが、かけるべき言葉が見つからなかった。
引き留める?
そんな言葉、誰にもかけたことがない。
宥める?
なぜ俺が、あいつに頭を下げなければならない。
紗夜の背中が廊下の角に消えると、絵里は待ってましたとばかりに涙をこぼした。顔を覆い、肩をふるふると震わせる。その声は、絶妙な加減で嗚咽が混じっていた。
「全部、私のせいです……私がいたから、紗夜さんがあんなことを……」
瑞樹がすぐに絵里のそばへ駆け寄り、小さな手で彼女の服の裾を引っぱる。声が裏返るほど必死だった。
「絵里おばちゃん、悪くないよ!ママが悪いんだ、なんで絵里おばちゃんに怒るの!」
絵里は潤んだ瞳で、それでも健気に首を横に振ってみせる。「瑞樹くん、いい子だから。ママのこと、そんな風に言っちゃだめよ」
そう言いながらも、涙に濡れた瞳でちらりと辰の顔を窺う。そこには隠しようのない哀れさを滲ませて。
この男が、こういう女に弱いことを彼女は知っていた。紗夜のように何でも一人で抱え込み、泣き言一つ言わない女は、辰の目には『面白みのない女』と映る。そして、自分のような女こそが『守ってあげたい女』なのだと。
辰がそばに寄り、珍しく穏やかな声で言った。
「君のせいじゃない。あいつが本気で離婚するわけがない。俺を脅しているだけだ」
絵里は小さく数回しゃくりあげてから、ようやく落ち着いたように、そっと辰の肩に寄りかかった。
心の中は、まったく別の景色が広がっていた。紗夜にはさっさと離婚届に判を押してもらいたい。瑞樹はもう完全に自分の味方だ。あとは辰の心がもう少しこちらに傾けば、黒沢夫人の座は、もうすぐ自分のものになる。
彼女は密かに口角を上げたが、すぐにその得意げな表情を隠し、再びしくしくと泣き真似を続けた。
◇
病室に戻った紗夜は、遥を寝かしつけると、親友の相沢薫に電話をかけた。
「薫」
呼びかける声は静かだったが、妙に落ち着いていた。
「腕のいい弁護士を探してほしいの。離婚するから」
電話の向こうで、二秒ほどの沈黙が流れる。それから、薫の声が聞こえた。
「……やっと、決心がついたの?」
紗夜のこれまでの献身を、薫はずっと見てきた。瑞樹の体のために自分のキャリアさえ捨て、ろくに眠れもしない日々を送り、心身のすべてをこの家に捧げてきた。
その結果、得られたものは何だったのか。
黒沢辰の瞳が、本当に彼女に向けられたことなど一度でもあっただろうか。
薫はずっと、紗夜が不憫でならなかった。だが、彼女は何年も、ただ耐え続けてきたのだ。
「うん」紗夜は、固く握りしめた自分の指先を見つめた。「財産はいらない。でも、遥の親権だけは、絶対に譲れない」
薫はため息をつき、探るような口調で言った。「本当にいいの?あの男の条件なら、黒沢家のリソースを少し分けてもらうだけで、一生安泰じゃない」
「良くても、意味がないわ」紗夜の声は淡々としていたが、揺るぎない決意が宿っていた。「愛してくれないもの。どんなに良い条件も、私にとってはなんの価値もない」
電話の向こうで、薫はそれ以上何も言わず、「わかった」とだけ応えた。
二人は遥の近況について少し言葉を交わし、薫はすぐに家事事件、特に財閥の離婚案件を扱ってきたベテラン弁護士を何人か当たってみると約束してくれた。
電話を切り、紗夜は天井を仰いだまま、しばらく動かなかった。
一度この道を踏み出してしまえば、もう後戻りはできない。
後悔は、なかった。
◇
二日後、紗夜は退院の手続きを済ませた。
傷の治りは順調で、もう杖は必要なかった。
辰には連絡しなかった。
電話をしたところで、あの人が来てくれるはずがないことは、分かりきっていたから。
これまでの入院で、彼が一度でも顔を見せたことがあっただろうか。
手続きを終え、彼女は遥を連れて黒沢家に戻った。この時間は辰も会社におり、広い屋敷は静まり返っている。
紗夜は足早に寝室へ向かい、クローゼットを開けて荷造りを始めた。
彼女の荷物は、驚くほど少なかった。結婚後に買った服は数えるほどで、ほとんどが結婚前に自分で揃えたものだ。その代わり、遥の小さなワンピースは、一枚一枚丁寧に畳んでスーツケースに詰めていく。
荷造りの途中、彼女は瑞樹の部屋の前で足を止めた。
ドアは少しだけ開いていて、中はしんとしている。視線が、机の上のクレヨン画に落ちた。そこには、拙い線で描かれた大人二人と子供一人。その傍らには『パパ、えりおばちゃん、みずき』と書かれている。
彼女も、遥も、そこにはいなかった。
紗夜はその絵を数秒見つめ、静かにドアを閉めた。
それでいい。
彼女は自分の部屋に戻ると、スーツケースのジッパーを引き上げた。
入院中に、2LDKのマンションに目星をつけておいた。結婚前に貯めたお金で、敷金と最初の家賃は支払済みだ。離婚を決めた以上、まずはこの家を出ること。それから仕事を探して、遥に安定した生活を与えられるようにしなければ。
遥の手を引き、簡単な荷物を詰めたスーツケースを二つ持って、紗夜は新しい家のドアを開けた。広くはないが、清潔で日当たりの良い部屋だった。
遥は玄関に立ち、物珍しそうに部屋を見回すと、顔を上げて尋ねた。
「ママ、これからはずっとここに住むの?」
紗夜は娘と視線を合わせるように屈むと、風で乱れた前髪をそっと直してやった。「ここが、私たちの新しいおうちよ。気に入った?」
遥はきょとんとした顔で瞬きをしたが、すぐにこくこくと頷いた。「うん、好き」
紗夜は微笑み、娘を腕の中に抱きしめた。
遥が『好き』と言ったのは、ここにママがいるからだということを、紗夜は分かっていた。
◇
辰が仕事を終えて屋敷に戻った頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
玄関のドアを開け、いつものように靴を脱ごうとして、自分のためのスリッパが置かれていないことに気づく。彼は眉をひそめ、靴箱から予備の一足を引っ張り出して履き替えた。
リビングへ入る。いつもならこの時間、食卓には温かい夕食と、淹れたてのお茶が用意されているはずだった。
紗夜はいつも、俺の帰宅時間に合わせて、料理が出来上がり、お茶がちょうど良い温度になるように準備していた。どうしてそんなことができるのか尋ねたことも、礼を言ったこともない。ただ当たり前のようにそれを口にし、当たり前のように食器を置いていただけだ。
今、テーブルの上には何もない。
辰はがらんとしたリビングに立ち尽くし、声をかけた。
「紗夜」
返事はない。
彼はもう一度、少し声を張って呼びかけた。
「紗夜!」
やはり、沈黙が返ってくるだけだ。
まだ拗ねているのか。
その手口の幼稚さに、辰は内心で鼻を鳴らした。
二日も経つのに、まだ気が済まないらしい。
彼は紗夜の寝室へと向かった。出産を機に、二人はずっと寝室を別にしていた。子育てのためという名目だったが、実際のところ、辰が彼女と同じ部屋で寝たいと思ったことは一度もなかった。
ドアに手をかけ、押し開ける。部屋は真っ暗だった。
壁のスイッチに手を伸ばしながら、その唇にはまだ、どこか見下したような苛立ちが滲んでいた。
「紗夜、一体いつまで――」
その言葉は、途中でぷつりと途切れた。
