第四章
辰は部屋を見回した。
クローゼットの扉は開け放たれ、空っぽのハンガーがいくつかぶら下がっている。ドレッサーに並んでいたはずの化粧品も、綺麗さっぱりなくなっていた。
本当に、出て行ったのか?
辰は部屋の中央に立ったまま、しばらく動けなかった。
驚きというより、彼の顔に浮かんだのは得体の知れない不快感だった。
大げさな女だ。
感情的になると、すぐ何か事を起こさなければ気が済まない。だが、荷物を持って家を出たところで、何ができるというのか。
子連れの専業主婦が、この東京で一体どれだけ生きていけるというのだ。
少しは外で痛い目を見ればいい。そうすれば、黒沢の家がいかに恵まれていたかを思い知り、自分から頭を下げて戻ってくるだろう。
辰はクローゼットの扉を閉め、部屋の明かりを消して外に出た。
翌朝、辰が目を覚まし、無意識にベッドサイドテーブルへ手を伸ばす。
指先が空を切った。
彼は眉をひそめ、テーブルの上を手探りするが、何もない。ひんやりとした木の感触だけが伝わってくる。
いつもなら、紗夜が用意した水が置いてあるはずだった。朝一番に水を飲むのが彼の習慣だ。
苛立ちを覚えながら、辰は布団を跳ねのけて部屋を出た。
廊下の向こうから、瑞樹の声が聞こえてくる。泣き叫ぶのと怒鳴るのの中間のような声。典型的な寝起きの癇癪だ。
「やだ!僕、まだ寝る!」
「坊ちゃま、幼稚園の時間が迫っております」
「うるさい!起きないってば!」
住み込みの家政婦である田中が、ドア越しに必死に声をかけている。
この家で十年以上働いている彼女は、家事全般を完璧にこなすが、今は明らかに途方に暮れていた。
普段、瑞樹を起こすのは紗夜の役目だった。彼女はいつも根気強く声をかけ、着替えもすべて揃えてやるのだ。
ようやく瑞樹を洗面所に引きずり込むと、水を出す音が聞こえた。
「なんでこの歯磨き粉なの!いい匂いしない!これやだ!」
「申し訳ございません、坊ちゃま。いつもどちらをお使いか、存じ上げず……」
「コップに水も入ってない!」
田中の声が詰まる。「あ、あの……いつも奥様がご用意されていたもので、わたくしでは……」
ひとしきり大騒ぎして、ようやく身支度が終わった。
ダイニングに下りると、田中が用意した和食の朝ごはんが並んでいた。
ご飯、お味噌汁、焼き鮭、小松菜のおひたし。
辰は椅子を引いて腰掛け、箸を取る。一口食べて、味は悪くないはずなのに、無意識に眉根を寄せた。
紗夜が作る味噌汁には、ほんの少しだけ柚子の皮が入っている。注意して味わわなければ気づかないほどだが、その僅かな爽やかさが、椀全体の味を別物に変えるのだ。
「出汁巻き卵を作れ」と、辰は言った。
布巾を手に歩いてきた田中が、ぴしりと固まる。
そばにいた瑞樹も「僕も!僕も出汁巻き食べたい!」と声を上げた。
「かしこまりました、坊ちゃま……」田中は困り果てた顔になった。「あの、出汁巻き卵は……出汁の割合や火加減など……わたくしには作り方がよくわからず……」
辰は顔を上げた。「レシピを見て作れ」
「は、はい……ただ、坊ちゃまのお口に合うように、奥様はいつも分量を調整なさっていたようで……奥様のお作りになるものを、と存じますと……」
一瞬の沈黙。
田中は冷や汗をかきながら、スマートフォンを取り出した。「あの、奥様にお電話してみます」
紗夜は、スマートフォンの着信音で目を覚ました。
画面に点滅する「田中さん」の名前に一瞬ためらったが、通話ボタンを押した。
「奥様、旦那様と坊ちゃまが出汁巻き卵を召し上がりたいそうなのですが、わたくしには作り方がわかりませんで」
紗夜はベッドの端に腰を下ろし、眠たい目をこすった。「作り方、メッセージで送りますね」
田中は送られてきた手順を見て、言葉を失った。
まず、出汁を取る。昆布と鰹節で、一から。昆布は四十分水に浸しておくこと。冷水から鍋に入れ、弱火で鍋底に細かい泡が立つ直前に取り出すこと。沸騰させると苦味が出る。
最初の工程を読んだだけで、田中は続きを読む気をなくした。その先にも、まだいくつもの手順が書かれている。
こんなに手の込んだものを、自分が作るのは無理だ。やはり奥様に戻ってきていただいて、旦那様と坊ちゃまに作っていただくのが一番いい。
彼女は慌てて尋ねた。「奥様、いつお戻りになりますか?」
「もう戻りません」
田中は呆然とした。「え?」
紗夜は続けてスマートフォンを操作する。「瑞樹の好きな他の料理のレシピも送っておきました。アレルギーのある食材についても書いてありますから。これからはもう、電話はしないでください。私は、もう戻りませんから」
田中が我に返る前に、電話は一方的に切れた。
「いつ戻るそうだ?」と辰が訊ねる。
田中は気まずそうに視線をさまよわせ、口ごもった。
「言え」
「奥様は……」田中の声が小さくなる。「もう、戻らない、と」
カップの取っ手にかけた辰の指が、微かに止まった。
あの女、わざとやっているに違いない。俺から迎えに来させたいだけだ。
戻らないわけがない。今頃、昼の弁当の準備に追われているはずだ。これまでだって、喧嘩をするたびに、彼女は機嫌取りのように手作りの弁当を届けてきたではないか。
遥は、キッチンから漂ってくるいい匂いで目を覚ました。
「ママ、いいにおい」
「起きたのね」紗夜は振り返った。「もうすぐできるから、お着替えしておいで」
遥は布団からころんと転がり出て、洗面所へと駆けていった。
小さなダイニングテーブルに、二人分の朝食が並んでいる。
ほうれん草と卵のソテー、薄切りのトースト、それにミニトマトが数個。
紗夜はほうれん草を手に取ったとき、ふと――瑞樹はほうれん草が食べられない――という考えが無意識に頭をよぎった。すぐに、ここには瑞樹はいないのだと我に返る。
着替えを終えた遥が戻ってきて、椅子にちょこんと座った。ソテーを一口食べると、ぱあっと目を輝かせる。「おいしい。すっごくおいしい」
「ほんと?よかった」紗夜はコーヒーカップを両手で包み、向かいの席に座った。
遥はさらに数口食べ、ふと箸を止めた。そして、小さな声で尋ねる。
「ママ、私、これから毎日このほうれん草の卵の、食べていいの?」
紗夜は微笑んだ。「もちろんよ。前のおうちにいたときも、食べてたじゃない?」
遥はふるふると首を横に振った。「田中さんがね、瑞樹くんが食べられないから、遥だけ別に作るのは大変だからって、作ってくれなかったの」
その言葉に、紗夜はカッと頭に血が上るのを感じた。遥は瑞樹の食事に合わせる必要はないと、あれほど田中に言いつけておいたのに。
まさか、自分の見ていないところで、遥がそんなふうに区別されていたとは。
もしこれが瑞樹だったら、使用人たちもそんなことはしないはずだ。義母が瑞樹を溺愛している以上、誰も彼に寂しい思いをさせようとはしないだろう。
紗夜はカップを置き、椅子を引いて遥のそばにしゃがみこんだ。「遥」
「うん」
「これからは、遥が食べたいものは、ママが何でも作ってあげる。本当に何でもいいの。食べたいものを、ママに教えて」
遥はゆっくりと瞬きをした。「……ほんとうに、何でも?」
「何でもよ」
遥はきょとんとして、それから、じわじわと笑顔が顔いっぱいに広がっていった。
「じゃあね……カレーライスも食べたいな」
紗夜は頷き、娘の頭を優しく撫でた。
朝食を終え、紗夜は遥を幼稚園へ送っていった。
遥が友達と一緒に園舎へ入っていくのを見送り、帰ろうとしたそのとき、スマートフォンが鳴った。
義母からのメッセージだった。
【母親失格ね。子供があなたの手料理を食べたがっているのに、それすら叶えてやれないなんて】
【さっさと戻ってこないなら、辰に言って生活費を止めさせますから】
