第五章

紗夜は義母から送られてきたメッセージを、無表情のまま最後まで読んだ。

その光景が目に浮かぶようだった。瑞樹が食卓で出汁巻き卵が食べたいと駄々をこね、田中さんではその味を再現できないものだから、祖母に泣きついているのだろう。

けれど、紗夜の心はもう動かなかった。火事、病院、そして裏切り。それらを経験した後では、黒沢家からのどんな非難も、彼女の心にさざ波ひとつ立てることはなかった。

ただ、最後の一文だけが、確かな棘となって突き刺さった。

『いつまでも戻ってこないつもりなら、辰に言って生活費を止めさせますからね!』

スマートフォンを握りしめる指の関節が、白く浮かび上がった。

彼女は頭の中で素早く計算する。

吉祥寺のマンションの家賃が月十四万円。水道光熱費で二万円ちょっと。遥が通う名門私立幼稚園は学費だけで八万円、それに教材費や遠足代は含まれていない。

母娘二人の食費、交通費、日用品を合わせると、どんなに切り詰めても十五万円は必要だ。保険やいざという時のための貯金は別に確保しなければならない。

一ヶ月で、最低でも四十数万円はかかる。

そして、今の貯金では半年ももたないだろう。

紗夜はスマートフォンを置き、深く息を吸った。

一刻も早く、安定した仕事を見つけなければ。

その時、記憶の奥底からふと一つの言葉が浮かび上がった――全固体電池。

結婚前の数年間、彼女は研究室に籠もりきりだった。毎日、電極材料や様々なデータと向き合っていたが、それを退屈だと感じたことは一度もなかった。

もし研究室に戻ることができれば、自分と遥の生活を支えられるだけでなく、失われた六年間を取り戻せるかもしれない。

そう思うと、紗夜はスマートフォンの連絡先を開き、藤原教授の名前を探し出した。

最後にやり取りをしたのは、去年の年賀メッセージだ。当たり障りのない挨拶を二、三交わしただけ。

その名前をじっと見つめ、何度か文字を打っては消しを繰り返した末、ただ一文だけを送った。

『先生、ご無沙汰しております。お変わりなくお過ごしでしょうか』

送信ボタンを押してから、時間がやけに長く感じられた。

画面を見つめていると、秒針が進むたびに、心臓がずしりと重くなっていくような気がした。

やはり先生は、まだ自分のことを怒っているのだろうか。

紗夜はスマートフォンを伏せ、自嘲気味に笑みを浮かべた。

結婚して研究を辞めると伝えたあの日、先生は長いこと黙り込んだ後、こう言ったのだ。「紗夜君、君は私が指導した学生の中で最も才能がある。よく考えなさい」と。

もう返信はないかもしれない、と諦めかけた時、スマートフォンが一度だけ震えた。

慌てて画面を表に向けると、そこには短い一文があった。

『父が入院中です』

紗夜の心臓がどきりと跳ねた。先生が入院?

すぐに病院の場所を尋ね、タクシーを捕まえて病院へと急いだ。

車を降り、病院の入り口にある売店で慌ただしくフルーツの籠盛りを選ぶと、足早に病室へと向かう。

しかし、いざ病室の前に立つと、足がすくんでしまった。

廊下に立ち尽くし、フルーツ籠の取っ手を握る指先に力がこもる。手のひらはじっとりと汗ばんでいた。先生はどんなご様子なのだろう。こんな自分を見て、余計に腹を立てたりしないだろうか。

ドアの前でためらっている時間は、あまりに長すぎたらしい。不意に、ドアが内側からがらりと開けられた。

視界に飛び込んできたのは、見覚えがあるようで、どこか知らない顔だった。

背はずいぶんと伸び、少年時代の青臭さはすっかり抜け落ちている。まるで時が彼を新たに彫刻し直したかのようだった。

ただ、あの切れ長の目だけは変わっていない。人を食ったような、どこか冷めた眼差しは、無関心を装いながらも相手のすべてを見透かすようで、逃げ場を失わせる。

藤原司。藤原教授の息子だ。

司はドアの内側に立ったまま、紗夜を見ると口の端を上げた。

「なんだ、ドアの前で立たされてんのか? 親父に合わせる顔がない、とでも?」

その言葉に、紗夜は何も言い返せなかった。

この人は口は悪いが、根は優しい。昔、研究室にいた頃も、いつも「手際が悪い」と文句を言いながら、結局は壊れた機器を直してくれた。

後に彼も研究の道に進み、今では全固体電池を専門とする会社を立ち上げたと聞いている。

「司、お客様を困らせるんじゃない」病室の中から、穏やかな声がした。「紗夜君、入りなさい」

紗夜は促されるまま、病室へと足を踏み入れた。藤原教授はベッドの上で半身を起こしていた。顔色は記憶の中より少し青白い気もするが、彼女を見る眼差しは昔と変わらず温かい。

ベッドサイドのテーブルにフルーツ籠を置き、そばの椅子に腰を下ろす。二言三言言葉を交わし、教授が腰を痛めただけで、数日休めば問題ないことを知ってほっとした。

しばらくして、教授が口を開いた。

「君は今、幸せにしているんだろう? 望んだ通りの生活を送って」

紗夜は俯き、膝の上の指を強く握りしめた。

自分が望んだ生活とは、何だったのだろう。

六年前は、それが家庭だと思っていた。朝早く起きて朝食を作り、夫の帰りを待ち、子供の成長を見守ることだと。だが、それは間違いだったと証明された。

あの家は、本当の意味で彼女を必要としていなかった。そして自分は、そのために六年間という時間をすべて費やしてしまった。

「……申し訳、ありません」声が微かに震える。「私の結婚は、失敗しました。今、離婚の手続きをしています」

教授は何も言わず、ただ静かに彼女を見つめている。

紗夜は息を吸い、顔を上げた。真っ直ぐに恩師の目を見つめる。

「ですから……もし、まだ可能性があるのなら、研究の世界に戻りたいんです。全固体電池の研究を、もう一度やりたいです」

その言葉に、壁にだるそうに寄りかかっていた藤原司の瞼が、ぴくりと動いた。

顔に浮かんでいた揶揄の色が薄れ、うつむく紗夜の横顔に視線が落ちる。二秒ほど見つめてから、ふいと逸らされた。

彼も昔の彼女を知っている。聡明で、意地っ張りなところがあることも。

だが、まさかこんな風に行き詰っているとは思わなかったのだろう。目の下にはうっすらと隈が浮かび、一回り痩せたように見える。

それでも、研究に戻りたいと語る時の瞳は、大学時代と少しも変わらず、強く輝いていた。

藤原教授は数秒黙ってから、頷いた。

「君がそう考えてくれて嬉しいよ。君ならきっとできると信じている」

その言葉に、紗夜の目頭が一気に熱くなった。

この数日間、ずっと気を張っていた。遥の前で、薫の前で、泣いてはいけない、倒れてはいけないと自分に言い聞かせてきた。

けれど、先生のその一言が、張り詰めていた心の堰を切った。必死で保っていた平静が、一瞬で決壊する。

俯くと、肩が小刻みに震え、膝の上にぽたぽたと大粒の涙が落ちた。止めようとしても、後から後から溢れてきてどうしようもなかった。

腕を組んだままその様子を見ていた藤原司が、彼特有の意地の悪い口調で言った。

「おい、今度は『家庭』がどうとか言って、途中で投げ出すなよ」

棘のある言い方だったが、場の空気を和ませようとしてくれているのが紗夜には分かった。

涙を拭い、掠れた声で「もうしません」と答える。

教授に深く一礼し、藤原司にも軽く頭を下げてから、紗夜は病室を後にした。

病院の玄関を出ると、午後の陽射しが降り注いでいた。

紗夜はその場に立ち、深く息を吸う。

これからすべきことは一つ。離婚を、完全に成立させることだ。

ポケットのスマートフォンが鳴った。相沢薫からだ。

「紗夜、弁護士さん見つかったよ!」薫の声は興奮を隠しきれない。「東京で一番、親権問題に強いエース弁護士! 離婚協議書の草案ももうできてるから!」

電話の向こうの賑やかな声に、紗夜の口元がようやく微かに綻んだ。

「ありがとう。送って」


その頃、黒沢辰は長い会議を終えたところだった。

社長室へ戻る廊下を歩きながら、今朝の出来事を反芻する。紗夜はきっと、もうデスクに弁当を置いているはずだ。――外の弁当は口に合わないと俺が一度愚痴をこぼしただけで、いつもそうしてきたのだから。

あれほど俺に依存している女が、本気で離れていけるはずがない。

社長室のドアを開け、デスクに目をやる。包装の凝った弁当箱が、真ん中にちょこんと置かれていた。

辰の足がわずかに止まり、次いで唇に冷笑が浮かんだ。

ほら見ろ、やはり戻ってきた。

心の内で心地よい優越感が込み上げてくる。ゆっくりとスーツのジャケットを脱いでハンガーに掛けると、わざと弁当箱にはすぐ触れずにいた。

悠然とデスクの後ろに回り込み、指を弁当箱の縁にかけ、持ち上げようとした――その時。

背後のソファの方から、聞き慣れた女の声がした。

「お帰りなさい、辰さん。早くご飯にしましょう? 私、愛情たっぷりのお弁当を作ってきたんですから」

前のチャプター
次のチャプター