第六章
辰の指が、宙で止まる。ゆっくりと振り返ると――
ソファに腰掛けていたのは、絵里だった。
オフホワイトのニットに、長い髪を片側に緩く流している。こてん、と首を傾げて彼に微笑みかけた。
「どうしてそんなお顔をされているの?」彼女は立ち上がってデスクに歩み寄ると、ごく自然に手を伸ばして彼のネクタイを直した。「私では、歓迎されませんか?」
辰は彼女の顔をじっと見つめ、短く応える。
「……いや」
笑えなかった。
胸の奥に、ずしりと重い何かがつかえている。それが何なのか、自分でもよく分からない。
「まだ仕事が残ってる」彼は椅子を引いて腰を下ろし、視線をモニターに戻した。「先に帰ってくれ」
「え……」
「悪い。弁当、ありがとう」
そう言うと、辰は書類に目を落とした。
しばしの沈黙の後、絵里は悔しさを滲ませながらも、部屋を出ていった。
ドアが閉まっても、辰は身じろぎ一つしなかった。
モニターに映る文字は、一文字も頭に入ってこない。
紗夜から、もう二日も連絡がなかった。
彼女は毎日、必ず何かを送ってきた――遥の幼稚園での出来事、夕食のメニューの確認、たとえ「今日はいい天気ですね」という、ただのひと言であっても。辰は、メッセージを送らないと気が済まないタイプの女なのだと、ずっと思っていた。
なのにこの二日間、何もない。
スマートフォンを手に取り、しばらくためらった末に、紗夜の番号をタップした。
三度の呼び出し音の後、通話に繋がる。
『はい』
紗夜の声は、ひどく穏やかだった。穏やかすぎて、どこか遠くに感じられる。
「遥は最近、どうしてる?」
言いたいことはそれだけではなかったはずなのに、口から滑り出たのはその一言だけだった。
『元気にしています』
一瞬の間。
辰はネクタイを緩めながら、言葉を続ける。
「外の暮らしは何かと不便だろう。さっさと子供を連れて帰ってこい。いつまでも意地を張るな」
これだけ譲歩してやっているのだ。それでも彼女が聞き分けのない態度を取るなら、もう二度とチャンスは与えない。
『……ええ』
驚くほど素直な返事だった。
辰の口角が、微かに上がる。
やはり、外の暮らしは不便だったのだ。一人で子供を連れて、慣れない場所で暮らすのは限界だったのだろう。だから、この電話一本で、こうもあっさり言うことを聞くのだ。
「夕飯までには帰る」
そう言って、一方的に電話を切った。
スマートフォンをデスクに戻すと、胸の重みが少しだけ軽くなった気がした。
だが、その安堵が一体何を意味するのか、辰は深く考えようとはしなかった。
◇
放課後、紗夜は遥を連れて黒沢家の邸宅に戻った。
鍵穴にキーを差し込む指先が、微かに震える。
この扉を開けるのも、これで最後。そう思うと、不思議と感傷的な気持ちは湧いてこなかった。
廊下を抜け、まっすぐ寝室へ向かう。クローゼットの奥からボストンバッグを引きずり出し、前回慌てて置いていってしまった私物を一つ、また一つと詰めていく。
十分ほど経った頃だろうか。廊下から、靴底が床を鳴らす音が聞こえた。
「あら」
玄関ホールに立っていたのは、ハンドバッグを提げた絵里だった。何か得体の知れないものでも見るかのような目で、紗夜を値踏みしている。
彼女の斜め後ろでは、瑞樹がランドセルを背負ったまま、じっと自分の母親を見つめていた。
その眼差しは、冷え切っている。
「ママ、どうして帰ってきたの?」
瑞樹は母親を見ているはずなのに、まるで別の何かを見ているかのようだった。
紗夜は手を止める。
「荷物を取りに」
「ふうん」
瑞樹はランドセルを床に放り投げると、リビングの方へ向かった。
二、三歩進んだところで、不意に何かを思い出したように振り返る。
「ねえ、いつ帰るの?だし巻き卵を一個作ったら、帰ってくれる?」
紗夜の手が、ぴたりと止まった。
「……何ですって?」
「おばあちゃんが言ってたもん。僕がママの作ったのが食べたいって言えば、ママは来てくれるって」瑞樹はこともなげに言う。「それに、僕と絵里おばさんは今夜一緒にテレビ見てポテチ食べる約束してるんだ。ママが来るとまた色々言われるし」
その言葉一つ一つが、静かに胸に突き刺さる。
鋭く、冷たい。
喉の奥が詰まったようになり、紗夜は視線を手元に戻した。
「分かったわ」声が掠れそうになるのを、無理やり平坦に整える。「安心して。もう、あなたと絵里さんの邪魔はしないから」
瑞樹は「そっか」とだけ言うと、リビングへと消えていった。
紗夜は絵里の品定めするような視線を無視して、再び荷造りを続ける。
小さな布袋をバッグに入れようとした時、それを見咎めた絵里が、わざとらしく眉を吊り上げた。
「あら、それ、辰さんからいただいたものではなくて?持って行ってよろしいの?」
リビングからこっそり戻ってきた瑞樹が、すぐさま同調する。
「そうだよ、パパが買ったものでしょ。ママはお金ないのに、どうして持って行くの?」
その言葉に、遥の顔がぷっと膨れた。
遥は瑞樹をまっすぐに見据え、落ち着いた声で言う。
「瑞樹くん、ひどいよ。ママが入れたのは、おばあちゃんの形見。パパが買ったものじゃないわ」
瑞樹は口を噤んだ。
遥はゆっくりと視線を絵里に移し、その首元に留める。
そして、静かな口調で言った。
「絵里おばさんの首につけているそのネックレスこそ、パパが買ったものでしょう?」
絵里は思わず自分の首に手を当て、何か言い返そうとした。
その時、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
靴を脱ぎながら、辰の視線が廊下を走り、ボストンバッグの傍に立つ紗夜の姿を捉える。
何かを察したように、彼はゆっくりと歩み寄ってきた。
「何をしている?」
紗夜は答えず、バッグのファスナーを閉めた。ハンドバッグから二つ折りにした書類を取り出し、テーブルの上に置く。
白い紙が、蛍光灯の下で広げられた。
「離婚届です」紗夜は辰を見て言った。「サインと捺印をお願いします」
瑞樹が書類の端をちらりと見て、場の空気が変わったことに気づき、顔を上げた。
「離婚?パパとママ、本当に離婚するの?」
次の瞬間、彼はきっぱりと言い放った。
「僕、パパと絵里おばさんと一緒にいる。ママとは一緒に行かない」
紗夜の耳に、その言葉が届く。
心臓が、一拍止まった。
「安心して」彼女は穏やかに告げた。「あなたの親権は、争うつもりないから」
瑞樹の顔に、一瞬だけ戸惑いの色がよぎった。
母親は、いつも自分を一番に考えてくれていた。そんな母親が、どうしてこんなにもあっさりと……。
何かを言おうとして、けれど言葉にはならなかった。
辰はしばらく無言で書類を見下ろしていたが、やがて紗夜の方へ一歩近づき、声を潜めた。
「紗夜、疲れているんだろう」彼はポケットからカードキーを一枚取り出す。「さっきの言葉は本気だとは思わない。これでヨーロッパでも回ってこい。一人でゆっくり休んで、気が済んだら帰ってくればいい」
紗夜は彼の顔を見つめた。
その瞳の奥には、傲慢さが透けて見える。
自分が折れてやれば、彼女は当然のようにその手を取るはずだという、絶対的な確信。
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
確かにこの六年間、ずっと彼に従ってきた。
夫婦とは、そういうものなのだと自分に言い聞かせて。
でも、もうやめだ。私には、私の人生があるはずだ。
紗夜は、ゆっくりと目を開ける。
「黒沢さん。私はもう、戻りません」
彼女は離婚届を、彼の前へとさらに押しやった。
「これにサインを。そうすれば、私たちはもう、何の関係もなくなります」
