第1章

「渡辺さん。離婚協議書は作成して郵送いたしました。もうお手元に届いておりますでしょうか」

受話器の向こうから、弁護士の声がする。

美咲は窓辺に立ったまま、眉ひとつ動かさず答えた。

「届いています。ありがとうございます」

「いえ、当然のことです」弁護士はそこで言葉を切り、少し迷ってから続ける。

「ただ……本当に、身ひとつで出ていかれるおつもりですか。田中さんとは長いご結婚で、界隈でも仲睦まじいと評判でしたのに、いったい何が……」

美咲は、その言い回しが可笑しくて仕方なかった。

仲睦まじい。――どこが。

ただの一方通行だ。追いかけていたのはいつも自分で、彼はずっと背を向けていただけ。

海城の上流階級で、渡辺美咲が「貢ぐ女」だと知らない者はいない。

姉の元恋人と結婚し、結婚してからも徹底的にへりくだり、すべてを夫の顔色ひとつで決めた。田中康介がスキャンダルで街を騒がせたときでさえ、前に出て頭を下げたのは美咲だった。『誤解です』と。

「妻にするなら渡辺美咲」

それは賛美ではない。笑いものにするための決まり文句。

美咲は思考を切り替え、淡々と言う。

「何でもありません。合わなかっただけです」

少し置いて、続けた。

「協議書には早めに署名させます。あとの手続き、お願いします」

その瞬間――。

「誰が離婚するって?」

低く沈んだ男の声が、背後から割り込んできた。

心臓がひくりと跳ねる。だが美咲は表情を崩さず振り返る。

「別に。友だちが夫婦喧嘩で離婚しそうってだけ」

田中康介がドア口に立っている。眉間にうっすら皺。追及しようと口を開きかけた、そのとき。

「パパ! 莉々おばさん、待ってるよ! 早く!」

廊下から息子――田中健人の声が飛んだ。

田中康介の迷いはそこで霧散した。

上着をつかみ、外へ向かう。

「待って」

美咲が呼び止める。

「どこへ行くの?」

田中康介は足を止め、振り返った顔にはすでに苛立ちが浮いていた。

「莉々の犬がいなくなった。ひとりで慌ててるから手伝いに行く。お前の誕生日は、あとで埋め合わせる」

「でも……」料理もケーキも用意して――。

言い終える前に、田中康介が遮った。

「誕生日くらいで今ここで張り合うな」

そこへ田中健人が外から入ってきて、露骨に嫌そうな顔で美咲を見る。

「ママ、なんでいつも莉々おばさんのところ行くの邪魔するの?」

見慣れた光景。

鋭い銀の針が胸の奥を抉るようだった。

渡辺莉々が半年前、海外から戻ってきてから――こういう場面は数え切れないほど繰り返された。以前なら泣き崩れて叫んだ。けれど今は、ただ味気ない。

美咲は唇をわずかに上げた。

「誤解してる。署名してほしい書類が二つあるだけ」

用意してあった書類を差し出す。

「これは何だ」田中康介が眉をひそめた。

受け取って目を通そうとした、その時――着信音。

田中康介は画面を見た瞬間、表情が柔らかくなる。電話に出ながら、書類の署名欄にさらさらとサインした。

「こういう車とか家とかの買い物は、今後はお前が勝手に決めろ。いちいち俺に見せる必要ない」

田中健人も続けて署名し、吐き捨てるように言った。

「そうそう。ママの特許とかも自分で持ってれば? 俺、いらないし」

言い終えるや否や、父の腕を引いて外へ。

「パパ早く! 莉々おばさん、絶対待ちくたびれてる!」

父子は慌ただしく去っていった。

玄関の扉が閉まり、美咲だけが取り残される。

美咲は手元の書類を見下ろして、苦く笑った。

少しでも目を通せば分かったはずだ。離婚協議書と、母親への親権放棄同意書――つまり、母についていく権利を放棄する書類だと。

だが、知ったところで気にもしないだろう。

この結婚は最初から最後まで、田中康介が望んだものではないのだから。

十年前。美咲は祖母を亡くし、見送りを終えた後、長年疎遠だった両親のもとへ戻った。

そこで姉・渡辺莉々の恋人だった田中康介と出会った。

当時の田中康介はビジネス界の若き実力者。投資の勘は神がかりで、田中グループを次の段階へ軽々と押し上げていた。

彼の伝説は数え切れない。だがそれ以上に、渡辺莉々との恋愛沙汰が噂の中心だった。

美咲は妹として、二人の別れと復縁、誓いの言葉を見続けた。

いつからか、その人に心が動いている自分に気づいた。

想いを隠すため、海城から遠く離れた都市へ進学し、医師の道を選んだ。

距離と時間があれば、心から消せると思った。

だが卒業間近、渡辺莉々は突然「将来のため」と別れを告げて出国した。

田中康介は追いすがって空港へ向かう途中、スピードを出しすぎて事故を起こした。

その事故で光を失った彼は、それまでとは別人のように心を閉ざし、性格まで一変してしまった。

半月も経たぬうちに、田中母が美咲の前に現れた。

「美咲……お願い。今の康介を支えられるのは、あなたしかいないの。どうか助けて」

胸の奥で、押し殺していた想いが静かに息を吹き返した。

三日後、美咲は田中康介のもとへ行く。

声が渡辺莉々によく似ていたせいで、田中康介は美咲を姉だと思い込んだ。美咲はその誤解を解かなかった。傍らで彼の目の治療を支え続けた。

本当は、視力が戻ったら去るつもりだった。

ところが、光を取り戻す前夜、田中康介が薬を盛られ、二人は関係を持ってしまう。

事後、隣に横たわる美咲を見た田中康介の瞳は、怒りで燃えた。

「渡辺美咲……莉々のふりをするなんて、いい度胸だ」

首を絞められ、殺されるかと思った。

駆けつけた田中母が止めなければ、美咲は終わっていた。

そして最悪なことに――美咲は妊娠していた。

情報はどこからか漏れ、田中母は田中康介に結婚を押し付けた。

ほどなく田中健人が生まれる。

嫌われていると自覚していた美咲は、せめて息子だけでも大切に育てようと決めた。

だが、かつて小さな手を広げて母を守ってくれた田中健人は、渡辺莉々が戻ってきてから、彼女を刺す刃になった。

「ママってほんと恥ずかしい」

「俺、莉々おばさんと遊ぶほうが好き」

「莉々おばさんがママだったらいいのに……」

なら、望み通りにしてあげよう。

美咲は離婚協議書を持ち、家を出た。

喫茶店で弁護士に二通の書類を渡す。

「署名は取れました。手続きを急いで。あと……私の痕跡をできる限り消してほしい」

「承知しました」弁護士は頷く。

細部を詰め、三十日後に離婚が成立する見込みを確認してから、美咲は席を立った。

店を出た瞬間、少し先のレストランから歓声が上がる。

続いて、聞き慣れた声が耳に刺さった。

「パパ! 莉々ママ、キスして! 俺、電動スクーターもほしい!」

美咲は反射的に視線を向けた。

レストランの前に人だかりが三重にでき、中心で田中康介と渡辺莉々が注目を浴びるように立っている。二人は互いを見つめ、甘い空気を纏っていた。

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