第2章
渡辺美咲は、止めようのない足取りで前へ進んだ。耳に飛び込んでくるのは、羨望まじりのひそひそ声ばかり。
「ねえ、あの夫婦……顔が良すぎない? そりゃ子どもも可愛いわけだわ」
「……あれ、どこかで見たことあるかも」
「田中グループの社長じゃない? うそでしょ。隣にいるのって奥さん? 今あの子、『ママ』って呼んだよね!」
美咲はレストランの前まで来て、隅に置かれた案内板に目を走らせた。そこでようやく、今日が店の5周年イベントだと知る。
ステージに上がって3分間キスできたカップルには、5万相当の電動スクーターが贈られる――。
ステージ上では、田中健人が興奮しきった顔で跳ねている。
その姿を見た瞬間、美咲の胸に、別の記憶が突き刺さった。
少し前、美咲は給料とボーナスをかき集めて、健人にラジコンカーを買った。発売されたばかりの世界限定モデル。値段は100万。3か月分の給料が、まるごと消えた。
それなのに――。
ラジコンカーを差し出した美咲に、健人は鼻で笑い、ゴミ箱へぽいっと投げ捨てた。
「ママ、こんな子ども騙しみたいなので誤魔化さないで」
なのに今は、たかが電動スクーターのために、ぴょんぴょん跳ねながら渡辺莉々を「莉々ママ」と呼んでいる。
美咲は呆然と健人を見つめ、かすかに笑みを漏らした。
――そうだ。もう、出ていくべきだ。
視線を引き剥がし、踵を返す。
背後でまた歓声が爆発し、その中から健人の甲高い声が響いた。
「パパ! パパ、早くキスして!」
美咲は一瞬だけ足を止め――すぐに歩幅を広げて、その場を離れた。
彼女が見なかった光景。
渡辺莉々がようやく勇気を出して背伸びし、田中康介に口づけようとした、その瞬間。康介は何かに気づいたように、ふいに入口を見上げた。
そこにあるのは、空っぽの扉口だけ。
康介の瞳が揺れる。
「康介?」
キスが空振りになり、莉々は目の奥の陰りを一瞬で押し隠して、小首をかしげた。
「……なんでもない」康介は軽く首を振る。
……。
田中康介たちが帰宅したのは、美咲が家に着いてから30分後だった。
渡辺莉々はにこやかに、箱を美咲の前へ置く。
「美咲、今日は外で食べたの。これ、健人があなたにって」
透明な箱の中には、食べ残しのケーキが半分。
美咲は視線を逸らした。
「いらない」
すると健人が、庇うように前へ出る。
「ママ、わざわざ持ってきたのに、一口も食べないの?」
「また莉々おばさんに当たってるんでしょ?」
……理由がないわけじゃない。
この半年、康介と健人があまりにあっさり莉々の側に立つたび、美咲は「渡辺莉々」という名前だけで理性が溶けた。遠ざけろと叫び、会社に押しかけ、妻の立場を振りかざし、必死で追い払おうとした。
結果は逆だった。二人はますます美咲を疎んだ。
今思えば、あの頃の自分は確かに面倒だった。
美咲は淡々と言った。
「私、マンゴーアレルギーなの。食べられない」
健人が固まった。感情の読めない美咲の目を見て、胸の奥がざわつく。
――なんで忘れてたんだ。ママがマンゴー駄目だって。
「やだ、私のせいだ」莉々が大げさに声を上げる。
「ケーキがおいしいってことばかり考えてて、マンゴーのこと忘れちゃった。新しいの買ってくるね」
そう言いながらケーキを片づけ、すぐ美咲のそばへ寄って申し訳なさそうに笑った。
「美咲、ごめんね。怒ってないよね?」
次の瞬間、声を落とす。二人にしか聞こえない音量で。
「今日、レストランにいたよね? あなたの旦那さんも、あなたの子どもも……私がこの家の奥様でいてほしいの」
「渡辺美咲、盗んだものは永遠に自分のものにならないよ」
美咲は横目でちらりと莉々を見る。
「盗み? 今、田中康介の妻も田中健人の母も私だけど。盗みって言葉が似合うのは、むしろあなたじゃない?」
「だって今のあなた、必死で浮気相手になりにきてる」
「渡辺美咲!」
莉々の顔色が変わる。言い返そうとして――玄関の方へ視線が泳いだ。
その瞬間だった。
莉々は美咲の手を掴んで自分の肩に置き、そのままわざと後ろへ倒れ込んだ。
「莉々!」「莉々おばさん!」
康介と健人の声が重なる。
二人は駆け寄り、莉々を支えて起こす。鋭く、嫌悪に満ちた視線が美咲へ突き刺さった。
康介の声は冷え切っている。
「いい加減にしろ。誕生日を一緒に過ごせなかったくらいで、莉々に当たり散らすのか」
莉々は康介の胸にすがり、息も絶え絶えに泣きじゃくった。
「康介……美咲のせいじゃないの。私がふらついただけ……私なんか来るべきじゃなかった……」
その涙に、健人が怒りを爆発させる。
「ママ最低! 大嫌い!」
康介は莉々を抱き上げ、外へ向かった。
「今日のことは、あとで必ず落とし前をつけさせる」
父子は、美咲に弁明の余地すら与えず、迷いなく莉々を選んだ。
美咲は去っていく背中を見つめる。
捨てると決めていたはずなのに、胸の奥から苦しさが込み上げた。
半月前のことが、ふいに脳裏をよぎる。
医療トラブルで患者に腕を切りつけられ、処置の最中に耐え切れず康介へ電話した。そばに来てほしかった。
返ってきたのは、冷たい声。
「無理だ。そもそも俺は医者じゃない。治療もできない」
電話は一方的に切れた。
帰宅して、包帯だらけの腕を見た康介は顔をしかめただけだった。
「その格好で、今度は誰の同情を買うつもりだ」
なのに莉々は無傷でも、康介は必死になる。
――心配は、相手を選ぶ。
美咲の胸に残っていた最後の執念が、すうっとほどけた。
彼女は身分証を掴んで家を出た。ビザを取るためだ。
それから数日、美咲は荷物の整理と必要な準備に追われた。すべて急ピッチで進め、最短15日で整える。
出国まで25日。
美咲はカレンダーに線を引いた。
そんな時だった。健人から電話が入る。
「ママ……体にぶつぶつ出て、すごい……来てくれる?」
泣き声と咳が混じる。
美咲の心臓が強く跳ねた。問い詰めそうになって、ぐっと飲み込む。
「分かった。用事が終わったら行く」
健人が戸惑った気配がした。
「……なんで聞かないの? どうしてこうなったとか」
美咲は淡々と返す。
「口出しされるの、嫌いでしょ」
早産で生まれた健人は、昔から体が弱かった。美咲は些細な変化にも怯え、必要以上に世話を焼いた。
以前の健人は、柔らかな手で美咲の背中を叩いて言った。
「ママ、心配しないで。健人はスーパーマンだよ」
でもいつからか、顔をしかめて吐き捨てるようになった。
「うるさい。いちいち構わないで」
だから美咲は、もう多くを聞かないようにした。
なのに健人は、突然怒鳴る。
「じゃあ勝手にすれば! 別に構われたくないし!」
