第76章 田中家には美咲という嫁が一人だけいる

渡辺莉々は「引いてみせる」手を何度も使ってきた。そしてそのたびに、田中康介の心は都合よく揺らいだ。

目尻を赤く染め、声にはわざとらしいほどの震えを混ぜる。

「おじいちゃん……私のこと、好きじゃないのは分かってます。でも今日は、本当にお誕生日をお祝いしたくて来たんです。そんなに私の顔が見たくないなら……帰ります」

言い切ると、彼女は踵を返した。だが足取りは、まるでかたつむりのように遅い。

一歩、二歩、三歩。

待っているのだ。田中爺さんが引き止める言葉をくれるのを。あるいは田中康介が、ひと言でも庇ってくれるのを。

けれど最初から最後まで、田中爺さんは冷えた目でその芝居を眺めているだけ...

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