第1章

「今日が何の日か、知ってる?」

午前零時、浅宮詩織は夫の帰宅を待っていた。

「何の日?」

九条蓮は視線をスマホから離さず、上の空で答えた。いつものようにスーツの上着を詩織に放り投げると、そのまま奥へ歩いていく。

詩織は上着を受け取った。

鼻腔に見知らぬ香水の香りが流れ込む——甘ったるく、若々しい。ネクタイには薄く口紅の痕が残っていた。別の女からの、露骨な挑発。

何も言わず、上着を畳んで掛ける。

今日は詩織の誕生日だった。八年の交際で初めて、蓮が不在の誕生日。

二人が出会ったのは大学のゼミだった。一目惚れだった。卒業と同時に婚姻届を出した。区役所の窓口で。

結婚式も披露宴もなかった。一枚の婚姻届だけが、二人を証明する唯一のもの。

あの夜、蓮は泣いた。

「いつか必ず、盛大な披露宴をしてやる」

詩織は今でもその言葉を覚えている。わずかに震えた声を。窓の外の美しい月を。

けれど五年の秘密婚が過ぎ、披露宴は訪れなかった。先に来たのは裏切りだった。

午後、詩織はInstagramのおすすめで一枚の写真を見た。

赤い和傘を差した女が、蓮に親しげに寄り添っている。腕を組んで、笑顔が眩しい。

蓮の視線は女に注がれ、瞳には滅多に見せない優しさが浮かんでいた。

出張というのは嘘だった。女性秘書——西園寺瑠璃と旅行するための口実に過ぎなかった。

少し前、蓮は誕生日に浅草寺へ一緒に行こうと言っていた。結果、当日になって忘れただけでなく、別の女と行っていた。

本当に皮肉で、滑稽だった。

詩織は蓮に何も連絡しなかった。誕生日ケーキは一人で食べた。とても甘かった。

途中で塩辛い味が混じった。気づけば涙が溢れていた。

それでも詩織は冷静に片付けた。まるで何も起きなかったかのように。

——

蓮はリビングに入るとソファに座り込み、スマホの画面を見つめて口元に笑みを浮かべている。相手と楽しそうにやり取りしているようだった。

詩織は用意していた書類を取り出した。「サインが必要な書類が二つあります」

「今?」

「急ぎなので」

蓮は指で眉間を押さえた——苛立ちを示す彼の癖だ。それでもスマホを置き、手を伸ばした。

詩織は一枚目を渡す。普通の業務契約書だ。署名欄を指先で軽く示す。

蓮は内容にざっと目を通し、問題ないと判断して名前を書いた。

二枚目が差し出される。

詩織の心臓が強く跳ねた。

蓮は見ていなかった。視線はもうスマホに戻っている。ペン先が紙を滑り、無造作に名前を書き込む。

詩織は書類を受け取り、整える。緊張が、冷笑に変わっていく。

たった一秒でも、もし彼が目を上げて内容を確認していたら、それが離婚協議書だと気づいただろう。

けれど今の彼の心は別の女に奪われていて、詩織に割ける余裕などなかった。

五年の結婚がこうして音もなく終わった。詩織は茫然とした。

「最近忙しくてさ。先に寝てて」

蓮はそう言い捨てると立ち上がり、階段へ向かった。

冷淡な背中を見つめながら、詩織はふと聞きたくなった。八年の愛は、二ヶ月の女に負けるのかと。

「——蓮」

彼女は声を上げた。

蓮の足は止まらなかった。

詩織は一歩踏み出しかけて、硬直した。蓮のスマホ画面が目に入る。セクシーな下着を身につけた、グラマラスな体の女の写真。

手を強く握りしめ、視線を逸らす。

西園寺瑠璃。あの女は恥知らずだ。既婚男性に自分の下着写真を送りつけるなど。

蓮の平然とした様子からして、西園寺がこういう写真を送るのは初めてではないのだろう。

怒りは湧いてこなかった。湧き上がるはずの感情は全て消え、ただ麻痺だけが残った。

詩織はソファに座り、離婚協議書を開いた。

自分の名前の隣に、夫の名前——九条蓮。鋭く整った字体。

詩織はそれを長く見つめた。

学生時代から結婚まで。八年の恋愛、五年の結婚。結婚式も、白無垢も、祝福の言葉も、何もなかった。

蓮が東証プライムへ上場するまで支えた。資金難の窮地を経験し、無数の深夜に企画書を作り、接待をこなした。九条グループが今の商業トップの地位を得るまで。

待っていたのは約束の実現ではなく、浮気だった。

詩織の唇が僅かに上がる。笑顔とは呼べない。

スマホを取り出し、離婚協議書を撮影して義母・九条小百合子に送信した。

一週間前、初めて九条蓮の浮気を知った時、証拠を集めて二百億円の慰謝料を要求した。

小百合子は詩織を嫁として一度も認めなかった。すぐに承諾したが、条件があった。早急に離婚すること、そして世間にこの結婚を明かさないこと。さもなければ協議は無効になる。

翌朝、まだ暗いうちに詩織は起きた。

これまでなら蓮を起こし、朝食を用意し、シャツにアイロンをかけてネクタイを選んで待っていた。今朝は自分の朝食だけを簡単に作り、出勤した。

電車は空いていた。詩織は窓の外を流れる東京の朝景を茫然と眺めた。

大手町駅を出て、九条グループのビルへ入る。

詩織は蓮の秘書・江藤亘を見つけた。二人が夫婦だと知る数少ない人物だ。

「おはようございます。社長は九時に会議があります。起床の連絡をお願いします」

江藤亘は固まった。「……はい。あの、喧嘩でも——」

「いえ」

詩織は微笑んで踵を返した。

九時、九条蓮が慌てて会社に着いた。昨日のスーツのまま、皺だらけで、ネクタイの結び目も歪んでいる。髪は整えたようだが、まだ乱れている。

廊下で書類を確認していた詩織が、音に顔を上げた。

蓮は詩織を見て眉をひそめる。

「先に来てたのか」

「事前準備が必要な仕事がありましたので」

「朝食は」

「済ませました」

蓮の眉が微かに動いた。何か言いかけて、止める。

ネクタイを直そうと手を上げる。いつもは詩織が結んでくれるため手つきが拙く、一度失敗してからようやく直せた。

詩織は手伝わなかった。視線を書類に戻す。

「……九条社長、三号会議室の準備が整っております」

私的な場で詩織はこんな呼び方をしない。

蓮の顔色が一変した。「詩織、何を拗ねてるんだ」

声には威圧感がある。詩織は平静に彼の視線を受け止めた。

「星野グループのAIプロジェクト、今日の午後三時に契約です。まだ準備がありますので、失礼します」

一礼して、背を向ける。

背後で蓮が名前を呼んだが、詩織は振り返らなかった。可笑しかった。

——浮気をした方が、先に怒っている。

午後三時の契約は無事に終わった。

星野グループの代表を見送り、詩織が会議室を出ると、内線が鳴った。

「社長がお呼びです」

社長室のドアを開けると、蓮は執務机の前に立って腕を組んでいた。詩織が入ると、口を開きかける。

詩織はいつもより遠くに立ち、報告を始めた。「星野の件は処理完了しました。契約書の原本は——」

蓮はその距離に眉をひそめた。「仕事の話で呼んだんじゃない」

彼は詩織に歩み寄り、以前のように腕を回そうとしたが、避けられた。

次の動きに移る前に、ドアが突然開いた。

ノックなし。

西園寺瑠璃が闯入してきた。赤いワンピース、ハイヒール、まるで休暇に来たかのような装い。

隣にいる詩織を無視して、蓮の腕に両手を絡めると、胸を押し付けた。

「蓮お兄様——」

甘ったるい声。

蓮は瞬時に腕を引き抜き、視線を詩織に飛ばした。

怒りを見ると思ったのだろう。しかし彼が見たのは、冷たく、嘲りを含んだ眼差しだけだった。

詩織は唇の端を上げた。笑顔と呼ぶには浅すぎる弧。

躊躇なく踵を返す。

蓮の顔色が変わった。「詩織」

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