第2章

「浅宮」

背後からかけられた声に、詩織はピタリと足を止めた。振り返りはしなかった。

「星野のプロジェクトは、今後琉璃に引き継ぐ」

九条蓮の声は、ごくありふれた人事異動でも告げるかのように平坦で、何の感情も読み取れなかった。

詩織の指先が微かに丸まり、硬く握り込まれた。

星野グループのAIプロジェクト。丸二ヶ月間、彼女が手塩にかけて育て上げてきたものだ。初期の探り合いのような折衝から始まり、幾度とない企画書の修正、数え切れないほどの徹夜を乗り越えてきた。星野社長の母親が入院していた時期には、退社後に毎日病院へ通い、半月もの間、自ら病室に詰めて看病までしたのだ。

そうやって少しずつ、血の滲むような思いで相手の心を動かし、ようやく勝ち取った提携だった。

いざ最終契約の調印というこの土壇場になって、その果実をすべて琉璃に明け渡せというのか。

「なぜですか」

彼女は振り返り、静かな眼差しを蓮に向けた。

蓮は微かに視線を逸らした。

「琉璃には、経験を積ませる機会が必要なんだ」

「それで、私のプロジェクトを彼女の経験値にするのですか」

「君のではない。会社のプロジェクトだ」

蓮の声が数段低くなる。その口調には明らかな苛立ちが混じっていた。

「プロジェクトの成績は君の評価として残す。君には別の案件を回す」

詩織は数秒間彼を見つめ、口を閉ざした。

当り前のように言い放つその態度は、まるで何かを施してやっているかのようだった。

傍らで、琉璃がくすくすと笑い声を上げた。顎をツンと反らし、見下すような視線を詩織に投げかける。

「蓮お兄ちゃん、詩織さんにすっごく優しいですねぇ。でもぉ——蓮お兄ちゃんが社長なんだから、ただの秘書の詩織さんは、命令を聞かないとダメですよね」

空気が一瞬にして凍りついた。

「琉璃」

蓮の声が唐突に沈み込んだ。「黙れ」

「だって、本当のこと——」

「出ていけ」

琉璃は下唇を噛み、瞬時に目元を赤くした。すがるような瞳で蓮を見つめたが、蓮は彼女を一瞥もせず、ただ詩織の顔をじっと見据えていた。

詩織は視線を逸らした。

——二ヶ月。企画書と睨み合った幾つもの深夜。星野社長の母親のベッドサイドで費やした、半月間の献身。

そのすべてを、他人に譲り渡す。

彼女は深く息を吸い込み、喉元まで込み上げた感情を無理やり胃の底へと押し込んだ。

「承知いたしました」

蓮は微かに安堵の息を吐き、顔の強張りを解いた。その口調には、いくぶんかの柔らかさすら混じっていた。

「この期間、苦労をかけたな。星野の方の引き継ぎは——」

「では、これで失礼いたします」

詩織は彼の言葉を遮り、一礼して踵を返した。

社長室を出て、背後で重厚な扉が静かに閉まる。廊下の白々しい蛍光灯の光が、彼女の足元に冷たい影を落としていた。詩織は伏し目がちに、扉の傍らで数秒間立ち尽くした。胸の奥に重暗いしこりがつかえたまま、吐き出すことも飲み込むこともできない。

納得できるはずがない。

扉の傍から動けずにいた。

だが、分厚い扉の向こうから、またしても琉璃の甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。

「蓮お兄ちゃん、契約書ってどうやって見るの? ここ、どういう意味?」

短い沈黙。

「……ほら、これは違約条項だ。もし相手が一方的に——」

蓮の声は、酷く優しかった。

根気よく、穏やかに。まるで聞き分けのない子供をあやすかのように。

詩織は目を閉じた。昔は、蓮もあんな声で自分に語りかけていた。大学時代の夜、彼がテキストを片手に1ページずつ解説してくれた時のこと。落ち着いた声。真っ直ぐに向けられた真剣な眼差し。

それはもう、遠い昔のことだ。

今、あの声はもう別の女のものになっている。

彼女は白くなるほど握りしめていた拳を解き、静かに歩き出した。

——

自席に戻り、詩織が腰を下ろした途端、隣から鼻で笑うような声が聞こえた。

「浅宮秘書も、たいしたもんね」

声をかけてきたのは営業部の黒沢だった。身を乗り出し、声を潜める。

「西園寺さんが星野のプロジェクトを引き継ぐんですって? はぁ、あっちは本物のお嬢様で、未来の社長夫人だもんね。単なる元カノのあなたが、どうやって太刀打ちできるっていうのさ」

詩織の指が、キーボードの上で一瞬ピタリと止まった。

「でもまあ、そうだよね」

黒沢は間延びした声で言い、詩織を上から下まで値踏みするように見つめた。「コネでその席に座ってることくらい、みんなお見通しなんだから」

詩織は目を伏せ、再びタイピングを再開した。

この手の陰口は、耳にタコができるほど聞かされてきた。

結婚を隠しているため、彼女が社長夫人であることを社内の人間は誰も知らない。周囲の目には、彼女は社長の愛人であり、体と引き換えに地位を手に入れた女としか映っていないのだ。どれほど実績を積み上げ、功績を残そうとも、最終的には『コネ』の一言で片付けられてしまう。

最初は滑稽に思えたが、やがて笑う気力すら失せた。

「浅宮」

江藤が歩み寄ってきた。どこか複雑な表情を浮かべている。

「社長がまた呼んでるよ」

黒沢が舌打ちをし、意味ありげに笑った。

詩織は立ち上がり、服のシワを軽く伸ばしてから、再び社長室へと向かった。

——

扉を開けると、そこにもう琉璃の姿はなかった。

蓮は背を向け、スラックスのポケットに両手を突っ込んだまま全面ガラスの窓辺に立っていた。窓の外、東京の空はすでに翳り始めている。逆光が彼の輪郭を鋭く切り取っていた。

「ドアを閉めてくれ」

詩織は言われた通りにし、ドアの傍に立ったまま彼の次の言葉を待った。

「琉璃は西園寺家の令嬢だ」

蓮は振り返らないまま、淡々とした声で言った。「うちと西園寺グループの間で大型の共同プロジェクトが進んでいる。彼女を星野の案件に参加させるのは、双方の信頼関係を盤石にするためだ」

少しの間。

「君にもわかるはずだ。会社にはこの提携が不可欠なんだ」

詩織は無言を貫いた。

——ええ、わかっている。

ただわからないのは、なぜ「会社のため」の代償を、いつも自分が払わなければならないのかということだ。

蓮がようやく振り返った。その視線が詩織の顔を捉える。彼女の表情から何かを読み取ろうとするかのような、探るような目をしていた。

「ここのところ多忙を極めていたせいで、君には窮屈な思いをさせた」

言葉を区切る。その口調が、ほんの少しだけ和らいだ。

「この山を越えたら、バルセロナに行こう。ずっと行きたがっていただろう?」

詩織は表情を崩さず、何も答えなかった。

——まただ。

この手のセリフを、これまで何度聞かされてきただろうか。

資金調達の目処が立ったら、旅行に行こう。プロジェクトが終わったら、君の実家に挨拶に行く。会社が安定したら、結婚式を挙げよう。

その度に、彼女は信じてきた。そしてその度に、次の「もっと重要な案件」に押し出され、反故にされてきたのだ。

そうしてようやく悟った。あれは約束などではない。ただ感情を宥めるための都合の良い口実に過ぎず、言い放った途端に忘れ去られ、実行されることのない言葉なのだと。

「……」

退職します。そう口にしようとした。

言葉が唇を出る直前、背後で物音がした。

いつの間にか再び扉を開けていた琉璃が、満面の笑みで蓮の腕にすがりついた。

「蓮お兄ちゃん、さっき言ってた違約金のところ、やっぱりわかんなぁい。もう一回教えてよぉ——」

蓮の意識は一瞬にして彼女へと引き寄せられた。低く相槌を打ち、二人は小声で言葉を交わし始める。詩織がまだそこに立っていることなど、完全に忘却の彼方だった。

詩織はその場に立ち尽くし、身動き一つしなかった。

しばらくして、蓮が顔を上げた。まるで今思い出したかのように、彼女を一瞥する。

「……まだ何か?」

その口調はあまりにも無造作で、どうでもいい部下に問いかけるかのようだった。

詩織は彼の目を見た。その瞳には罪悪感など微塵もなく、一抹の躊躇いすら浮かんでいない。

出かかっていた言葉を、静かに飲み込んだ。

「いいえ、何も」

彼女は微かに笑みを浮かべた。礼儀正しく、どこかよそよそしい。いつも通りの笑みだ。

「では、お先に失礼いたします」

一礼し、背を向けて、社長室を後にした。

扉が閉まった瞬間、廊下は静寂に包まれた。詩織は足を止め、掌に爪を食い込ませる。鋭い痛みが走った。

——退職の意思を、彼は聞きもしなかった。

あろうことか、「まだ何か」と問いかけてきた。

不意に、すべてが滑稽に思えてきた。怒りでもなく、悲哀でもない。ただ徹底的に冷え切った、乾いたおかしさだった。

これが、この男の目に映る自分の価値なのだ。

定時を迎えると同時に、詩織はデスクを片付け、立ち上がった。

背後から黒沢の嘲笑う声が聞こえてきた。何かを言っていたが、詩織の耳には一言も入ってこなかった。

ビルを出ると、東京の街はすでに暮れ泥んでいた。灰青色の空の下で、街灯が一つ、また一つと点灯していく。

詩織は歩道に立ち止まった。生ぬるい夜風が髪を揺らす。彼女はスマートフォンの画面を開き、家事代行の管理人にメッセージを送った。

『しばらく家を空けます。清掃は通常通りの基準で手配をお願いします』

帰宅したのは夜の九時を回った頃だった。広い室内に人の気配はない。蓮はまだ帰っていなかった。

彼女はスリッパに履き替え、寝室へと向かった。クローゼットを開け、衣類を一枚ずつ丁寧に畳んでスーツケースへと収めていく。ジュエリーボックス、スキンケア用品、身分証、数枚のキャッシュカード。

その動作はひどく緩慢で、まるで自らの人生の一部を静かに棚卸ししているかのようだった。

最後に、彼女は机の引き出しの奥から一つの写真立てを取り出した。

それは、二人が一緒に写った唯一の写真だった。大学の卒業式の日。満開の桜の木の下で、蓮は彼女の肩を抱き寄せ、二人とも心底楽しそうに笑っている。色褪せた時間の欠片。

詩織はその写真を、長い間、ただじっと見つめていた。

やがて静かに手を伸ばし、それを再び引き出しの底へと裏返して仕舞い込んだ。

玄関のドアノブに手をかけた時、彼女は一度だけ足を止め、五年間暮らしたこの家を振り返った。

あの頃の甘やかな思い出のすべてを、この冷え切った部屋に置き去りにして。

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