第3章
詩織の親友、結城玲子のマンションは中目黒からさらに奥へ入ったところにある。静かな住宅街で、街灯が地面を淡い黄色に染めていた。
詩織はスーツケースを引きずりながらインターフォンを押した。
一秒で繋がった。
「詩織?その顔、どうしたの——早く上がって」
エレベーターが開いたとき、玲子はすでにドアの前に立っていた。部屋着姿で、髪を無造作にまとめている。詩織の顔を一瞥した瞬間、眉がきつく寄った。視線がスーツケースに落ちたが、何も言わずにドアを大きく開け放った。
「入って」
玲子は弁護士だ。大学のころからこういう人間だった。口数が少なく、落ち着いていて、理由を先に問わない。以前、詩織が不貞の証拠を目の前に並べたとき、玲子は二十分かけてそれを確認し、慰めの言葉一つ言わずにパソコンを開いて離婚協議書の条項を起草し始めた。
詩織がソファに腰を下ろすと、玲子は台所へ向かってコーヒーを淹れ、カップを二つ持ってきてローテーブルに置いた。
「話して」
「星野のプロジェクト。蓮が、琉璃に引き継ぐよう言ってきた」
玲子の手が止まった。
「……そんなことをするなの?」
「もう引き継ぎ資料を用意して、西園寺さんに説明するよう言われてる」
カップをゆっくりと、丁重な仕草でテーブルに戻した。
「あなたが二ヶ月かけて仕上げたプロジェクトよ」
「うん」
玲子が深く息を吸った。
「まるごとあの女に渡すの?」
詩織は答えなかった。沈黙がすべてを語っていた。
「……信じられない」低く押し殺した声。感情を抑えるときの、彼女特有の語調だった。
顔を上げて、まっすぐ詩織を見る。
「ねえ、詩織。聞かせて。この五年、九条グループのためにしてきたことを、ちゃんと数えたことある?」
詩織はカップの中のコーヒーに目を落とし、黙っていた。
「国際経済フォーラムで、最初に九条の名前を打ち出したのは誰?創業期の資金繰りで、夜通し銀行と交渉したのは誰?東証プライム上場のロードショー資料を、実質的に作り上げたのは誰?」
「玲子——」
「この会社の半分以上は、あなたが積み上げてきたものじゃない」
低く、一語一語に重みを乗せた声だった。
「五年間の隠し婚。式もない、披露宴もない。ずっと『秘書』という肩書きで働き続けた。やっと上場まで漕ぎ着けたと思ったら、今度は家に戻れと押し込もうとする。絞り取って、使い切って、邪魔になったら——あげくにプロジェクトまで別の女に差し出すの」
コーヒーカップの縁からゆっくりと湯気が立ち上った。
「あの男は、一瞬でも本当に、あなたを『妻』として見たことがあったの?」
詩織は答えなかった。
答えは、とっくに知っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、玲子はカップを口に運んで一口飲んだ。声のトーンが落ち着いた弁護士のそれに戻る。「辞めたあと、どうするつもり?」
「転職。行き先の目星はある。まだ話はしていないけど」
「源氏ホールディングス」
詩織はわずかに間を置いた。
「源枢が帰国した」玲子が言った。「三年で、グループの規模を二倍にした。財界全体が次の手を注視してる。新しい場所を探すなら、これ以上ふさわしいところはないわ」少し間を置いてから、「同じ大学よ、あなたたち」
「そうだね」詩織は頷いた。記憶の中に、ぼんやりとした輪郭が浮かぶ。「ただ、本人には会ったことがない。あまり表に出てくる人じゃないから」
大学では彼にまつわる噂が絶えなかった。商学部では誰もがその名前を知っていて、国際フォーラムで賞を取ったとか、あるシンポジウムで会場を唸らせたとか——でもそれはすべて、他人の口から聞いた話だ。自分の日常とは、一度も交わらなかった。
玲子が何か考えるような目で詩織を見た。それ以上は追わなかった。
——
田園調布の邸宅。蓮がドアを開けたのは、夜の十時近くだった。
執事が出迎えて、腰を折った。
「奥様は?」
「浅宮様は本日、お友人のお宅に一泊されるとのことです。お食事はお待ちにならなくてよいと」
蓮の足が一瞬止まった。眉がかすかに寄り、すぐに開いた。
リビングを見回す。照明はいつも通り、すべての物がいつもの場所にある。ただ、言葉にしにくい、馴染み切った気配が、少しだけ薄くなっていた。
拗ねているのだ。
ネクタイをほどいてソファに腰を下ろし、スマートフォンを取り出してメッセージを確認する。少し頭を冷やせば、数日で戻ってくる。
——
翌朝、七時半。蓮は寝返りを打ちながら、習慣で口を開いた。
「詩織」
返事はなかった。
目を開ける。ベッドの反対側は綺麗に整ったままで、枕にはどこにも凹みがなかった。
執事がドアの前で静かに声をかけた。「旦那様、朝食をご用意しております」
食卓はきちんと整っていた。料理人がいつもの栄養バランスで作ったものだ。蓮は味噌汁を手に取って一口飲んだ。舌が汁に触れた瞬間、眉がわずかに動いた。
味は正しい。ただ、どこか足りないものがある。
椀を置いて一秒考えて、ようやく思い出した。詩織はいつも味噌汁にひと掴みの鰹節を加えていた。飲むと頭が冴えると言って。これまで違いなど感じたことはなかったのに、今日は分かった。
スーツは執事が合わせたものを持ってきた。一目見て、ネクタイの色と上着がどこか噛み合わない気がして、別の一本に替えた。鏡の前に立ち、二度ほど結んだが、緩みも締まりも何かが違う。
詩織はいつも後ろに立って、肩越しに両手を回してきた。それで三手もかからずに仕上げた。時間を取らせたことは一度もない。
蓮は鏡の中のわずかに崩れたネクタイを見つめ、声もなく息を吐いた。
数日のことだ。
もう一度結び直し、それでよしとして家を出た。
——
「仕事、最後に休んだのはいつ?」
玲子がたこ焼きの最後の一個を口に放り込み、もごもごと聞いた。
詩織は考えてみたが、思い出せなかった。
「それが答えね」玲子が串をテーブルの端で軽く叩いた。「行くよ、今日は仕事禁止」
報告書がまだ二本あると言いかけたとき、玲子がすでに手を上げていた。「誰に送るの?九条蓮に?」
詩織は一秒黙って、スマートフォンを出して休暇申請を送信した。
しばらくプログレスバーが回って、承認されなかった。
その回り続けるアイコンを二秒ほど見つめてから、画面を下にして机に伏せた。
昼食は、玲子が中目黒の路地へ引っ張っていった。担担麺の専門店で足が止まる。間口の狭い店で、のれんは少し古びていて、木の看板に「汁なし担々麺・激辛あり」とある。辛い香りが換気扇の口から漏れ出て、路地の中で散らずに漂っていた。
詩織は入口に立ち、深く息を吸った。胃の底から、久しぶりの感覚がじわりと込み上げる。
「食べたいだけ辛くしていい」玲子がのれんを押しのけ、横を向いた。「九条蓮は薄味好みでしょ。五年付き合って、最後に辛いもの食べたのいつ?」
答えずに、メニューを見下ろして、辛さ五倍を頼んだ。
玲子が眉を上げた。「やるじゃない」
丼が運ばれてくる。スープは濃く、赤い油が芝麻醤の上に広がって、山椒が底に沈んでいた。混ぜてから、一口目を口に入れた。辛みと痺れが喉を伝わって落ちていき、舌の先が熱くなって、目の端がかすかに滲んだ。
辛さのせいじゃない。
ただ——長いあいだ食べていなかった。
結婚から五年、自分の好みをどこかに置き去りにして、もともと何が好きだったかも忘れかけていた。
スマートフォンの画面が光った。不在着信、蓮の名前。
二秒見つめてから、伏せて、箸を持ち直した。
「彼から?」玲子が目をやった。
「うん」
「出ないの?」
「話すことがない」
言葉が終わるか終わらないかで、また震えた。今度はメッセージだ。ロック画面に通知が出て、詩織は下を向いて確認した。
九条蓮:『怒ってる?』
その五文字を見た。胸の中は静かだった。凪のように。怒りもない、苦さもない、皮肉を思う気力さえ湧いてこなかった。
玲子が覗いて、鼻で笑った。それだけだった。
一口麺を食べて、少し経ってから顔を上げた。「今夜、パーティーがある。来る?」
「誰の?」
「財界の集まり」玲子が少し間を置いた。「源枢も来る予定よ」
詩織は箸を置いて、玲子を見た。
「考えておいたの」玲子の声は静かだった。「転職するなら、人脈を一から作らないといけない。あなたを受け止めてくれる場所を見つけないといけない。源氏は可能性がある。でも、まず顔を見せないと始まらない」
視線を上げる。
「九条蓮は西園寺琉璃と知り合いになれる。あなたが作り上げたものを全部人に渡せる」玲子の声がわずかに低くなった。「なのに、あなたはこの丼食べ終わったら座って待ち続けるの?」
詩織は黙ったまま、数秒考えた。
路地の外、東京の街の音が雑然と生々しく流れている。辛い香りがまだ空気の中に漂っていた。
下を向いて、箸を取り直した。
「何時?」
玲子の口の端が、ゆっくりと持ち上がった。「八時よ」
