第4章
食後、玲子は詩織を乗せて車を走らせ、デザイン性の高い洋館へと向かった。
「ここは?」
「友達の店」玲子はドアを開け、振り返った。化粧っ気のない詩織の顔に半秒ほど視線を留める。「行くわよ」
二階へ上がる。ドアは少し開いており、奥から細いゴールドフレームの眼鏡をかけた女が現れた。詩織を一瞥するなり、レンズの奥の目が鋭く光る。
「こちらは?」
「いつも話してる親友。浅宮詩織」玲子は彼女を半歩前へ押し出した。「今夜、この子を最高に輝かせて。好きにしていいわ」
「ちょっと待って——」玲子の気合の入り方に、詩織は戸惑った。
だが、女はすでに詩織の正面に回り込んでいた。ひんやりとした指先が顎を持ち上げ、指の腹がフェイスラインから耳の後ろへとなぞる。まるで寸法を測るように。
「骨格がいいわね。首から肩へのラインは彫刻みたいに綺麗だし、この透き通るような白い肌なら、重い色にも負けない」
「玲子、こんな逸材、どうして今まで隠してたの?」
玲子はソファに腰を下ろし、足を組んだ。ティーカップを唇に運ぶ手を止める。
「本人が隠れてただけ。私には関係ないわ」
詩織はその場に立ち尽くした。女と玲子を交互に見る。
「私はただ、パーティーに行くだけで——」
「だからこそ、ちゃんとした格好が必要なの」玲子はカップを置いた。長年スーツに身を包んできた詩織の姿に、静かに視線を落とす。「詩織、最後にちゃんとお洒落をしたのはいつ? 九条の秘書としてじゃなく、あなた自身として」
詩織は言葉に詰まった。
脳裏をかすめるのは、五年間変わらないスーツ姿、ローヒールのパンプス、いつもきっちりとまとめた髪。
「自分」がどうあるべきかなど、もう随分と考えたことがなかった。
玲子はそれ以上追及せず、ただ静かに彼女を見つめていた。
女はすでにハンガーから一着のドレスを取り出し、詩織の前に差し出している。
赤だった。年数を経た漆器のような、深みのある落ち着いた深紅。ラウンドネックで、カッティングに沿って自然に体にフィットするデザインだ。
詩織はその赤をじっと見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
「着替えてきて」
詩織が姿を現した時、玲子は顔を上げたまま、手に持ったティーカップを宙で止めた。
女も何も言わず、一歩下がって静かに彼女を見つめている。
詩織は背筋を伸ばして立っていた。鎖骨が露わになり、肩が開いている。深紅のドレスは腰のラインにぴったりと寄り添い、そこから流れるように落ちて、驚くほどの細さを際立たせていた。
髪は完全にアップにされ、白く輝くうなじが露わになっている。耳元では二粒の小さなパールが、呼吸に合わせてかすかに揺れた。
メイクは決して濃くない。だが、視線を上げた瞬間、その冷ややかな美しさが際立った。
少しつり上がった目尻、凛とした瞳。静かに置かれた刃のように、誰もおいそれとは触れられない空気を纏っている。
色白の肌に差されたベリーレッドの唇は、決して派手ではないが、見る者の目を釘付けにした。
彼女は元々、冷涼な骨格の持ち主だった。ただ長年それを隠していただけで、隠すのをやめれば、こうなる。
「九条蓮の目も、本当に節穴ね」玲子が立ち上がった。上から下まで念入りに眺め立て、鼻で笑う。「あんたを蔑ろにして、瑠璃なんていう趣味の悪い女を選ぶんだから」
「玲子、言い過ぎ」
「事実でしょ」玲子は彼女のそばに立ち、鏡越しの視線と交わった。「これが、あんたの本当の姿よ」
詩織の口角が、かすかに上がった。見えないほどの薄い笑み。
うつむき、ハイヒールの留め具に手を伸ばす。七センチのピンヒール。マットな赤いレザーが甲を包み込み、足首の細さを一層際立たせている。握れば折れてしまいそうだった。
「少しヒールが高いわね」女がしゃがみ込み、足首の骨を指先で軽く支えながら確認する。「随分履いてないでしょ?」
詩織は記憶を辿ったが、頭の中は真っ白だった。
最後にハイヒールを履いたのがいつだったか、もう思い出せない。ただ、蓮の歩幅に合わせるために、いつしか下駄箱がフラットシューズばかりになっていたことだけは覚えている。
二人とも、それ以上は聞かなかった。
会場に入ると、四方八方から視線が注がれるのを感じた。
詩織は習慣で肩をすくめそうになったが、隣の玲子がそれを目で制した。
「隠れないの」玲子は白いハーフマスクを渡してきた。縁にあしらわれたクリスタルが細かく光を反射している。玲子自身は猫のマスクを着けていた。「今夜の主役はあんたよ。慣れなさい」
帰りたい。
口には出さず、ただ唇を噛み締めた。
「駄目」玲子が手首を掴む。その指の力は有無を言わさなかった。「行くわよ」
人の波に合わせて歩き出す。大理石の床にヒールの音が響いた。バランスを取るためにふくらはぎの筋肉を緊張させ、一歩一歩慎重に足を進める。だが、背筋だけは真っ直ぐに伸びていた。
柱の陰を曲がった時、前方の人の波を縫うようにして歩いてくる影があった。
避けきれず、足首がぐらりと傾く——。
横から伸びてきた手が、詩織の肩をしっかりと支えた。
適度な力強さ。手のひらの熱が、薄いドレスの生地越しに肌へと伝わってくる。
詩織は体勢を立て直し、顔を上げた。
目の前にいたのは、頭一つ分背の高い男だった。黒のスーツが広い肩幅を包み込み、ラインが美しい。黒い狐の面が目元を隠し、引き締まった顎のラインと、余裕のある薄い笑みだけが覗いている。
男の視線は彼女の顔に向けられていた。軽薄さはなく、ただ瞬き一つしない真っ直ぐな瞳。
「大丈夫ですか?」
低く、磁力を帯びた声。鼓膜が微かに震えるのを感じた。
「……ええ。お見苦しいところを」
「急いでいた私の不注意です。申し訳ない」男は手を離し、緊張でこわばる詩織の足元へと視線を落とした。「こういう場は初めて? 少し足取りが硬い」
詩織は心臓が跳ねるのを感じた。
見透かされている。
何か答える前に、背後から玲子が彼女の手首に軽く触れた。
「あちらでダンスが始まるようです」男は急かすことなく、ダンスフロアへ視線を移した。「もしよろしければ、一曲いかがですか?」
それは問いかけではなく、静かな提案だった。
玲子はすでに後ずさりし、声を出さずに唇だけを動かした。
『楽しんできてね』
玲子が人混みに消えていくのを見届け、詩織は声にならないため息をつき、向き直った。
男の手はまだ宙に浮いたまま、彼女の返事を待っている。
骨張った、乾燥した力強い手。
「……喜んで」
男のエスコートは極めて忍耐強かった。
詩織は最初、どうしても半テンポ遅れてしまった。だが男は急かすことなく、リードの力を微かに調整し、腰に添えた手のひらの熱で彼女がついてくるのを待った。
数曲踊るうちに、詩織も次第に緊張が解けていった。ターンに合わせてドレスの裾が広がり、まるで一輪の赤い花が咲いたような感覚すら覚えた。
緩やかな音楽の中、男のリードに合わせて身を翻した時、ふと気がついた。
彼は、ずっとこちらを見ている。
形式的な視線ではない。マスクとメイクの奥に隠された、本当の輪郭を確かめようとするような、深い眼差し。
詩織はわずかに遅れ、顔を上げて彼を見た。
「……私たち、どこかでお会いしましたか?」
男は視線を逸らさず、面の下で目尻をかすかに曲げた。
「なぜ、そう思われるので?」
「その目が……」詩織は言葉を切った。その視線には、見覚えのあるような威圧感と、今この瞬間の静かな熱が混在していた。「どこか、懐かしい気がして」
男は正面からは答えず、低く笑い声を漏らした。その笑みは面の影に隠れている。
「気のせいでしょう」
詩織はしばらく彼を見つめたが、それ以上は聞かなかった。
ただ、心拍数だけが制御を超えて少し早まっていた。
一曲が終わり、ポケットの中でスマートフォンが連続して震えた。
視線を落とすと、画面には四、五件の不在着信が重なっている。すべて同じ名前。
九条蓮。
その名前をじっと見つめる。指先は画面の上で止まったままだ。
胸の奥の鼓動は、異常なほど穏やかだった。焦りも、期待もない。ただ、氷のように冷たく澄み切っている。
通話ボタンを押す。
「……はい」
「詩織」蓮の声には苛立ちが滲んでいた。「琉璃が今夜、一人で星野社長に会いに行ってトラブルになった。……どうやら条件をいくつか間違えて伝えて、相手を怒らせたらしい。君は星野社長と親しいだろう。これは君にしか処理できない。とりあえず今すぐこっちへ来てくれ。話はその後だ」
その後。
またその言葉か。
受話器越しの声を聞きながら、詩織の脳裏に、この五年間で繰り返された無数の「その後」が浮かんだ。
その後の旅行、その後の結婚式、その後の普通の生活。
どれ一つとして、実現することはなかった。
伏し目がちに、深紅のドレスを纏った自分をガラス越しに見つめる。ベリーレッドの唇。
「蓮さん」
「……ん?」
「退職させてください」
電話の向こうが、死に絶えたように静まり返った。
予想していたよりも、長い沈黙。
「……今、何て言った?」
「退職願はすでに提出済みです。まだ承認印はいただいていませんが」声は平坦だった。一言一言、自分とは無関係の文書を読み上げるように。「ですが、もう決めました。今夜の件も、今後のどんなトラブルも、私はもう一切関与しません」
「詩織、少し冷静になれ——」
「冷静です」詩織は彼の言葉を遮った。その声に震えは一切ない。「迎えは必要ありません」
耳元からスマートフォンを離し、通話を切った。
画面が暗転した瞬間、腕を下ろす。力を込めたせいで白くなっていた指の関節が、ゆっくりと緩んでいく。
言えた。
涙を流すこともなく、言い争うこともなく。この華やかなパーティーの喧騒の中で、ただ静かに口にすることができた。
かつてないほどの解放感が足元からせり上がり、彼女の背筋を力強く支えた。
深く息を吸い込み、顔を上げる。
そこでようやく、隣に人がいることを思い出した。
黒い狐の面の男は、その場から離れることも、声をかけることもなく、ただ静かに彼女を見つめていた。
その視線に、覗き見趣味や同情はない。あるのは、ただ定位置に収まった器を確認するような、静かな肯定だけだった。
詩織は男の視線を真っ直ぐに受け止めた。見られたことへの気まずさは、不思議なほど消え去っていた。
「お見苦しいところを」
「いや」男は落ち着いた口調で、低く確信に満ちた声を出した。「よくやりましたね」
詩織はわずかに息を呑んだ。
慰めか、あるいは嘲笑が返ってくると思っていた。だが、与えられたのはただ一つの肯定だった。
男はそれ以上何も語らず、軽く顎を引き、半歩下がって彼女の行く道を空けた。
「ご友人のところへ」
