第5章
スマートフォンの画面が再び点灯した。
詩織は着信画面を一瞥したが、微動だにしなかった。
音楽は鳴り続けている。ほんの数歩先では、ダンスフロアの人影が行き交っていた。彼女は柱のそばに立ち、掌の中で震動が消えるのを待った。画面が完全に暗転し、再び点灯してから、ようやく通話ボタンを押した。
「まだ怒っているのか?」受話器越しに響く蓮の声には、ある種の自負が押し隠されていた。「瑠璃のことは気にするな。彼女の家とは取引があるから、少し便宜を図っただけだ。他意はない」
詩織は手すりに寄りかかり、階下の灯りへと視線を落とした。
パーティーの暖かな光が下から湧き上がり、流動する人影を照らし出している。喧騒は、今の彼女の心境とは何の関係もなかった。
「では」彼女は口を開いた。データを照合するような、平坦な口調。「あなたが便宜を図らなくても、先方は九条グループと提携したと?」
電話の向こうが、一瞬沈黙した。
ごくわずかな間だったが、詩織はそこに確かなものを聞き取った。
「口の利き方が無礼だぞ」
彼の声が冷ややかになる。見下すことに慣れた者特有の不快感——怒りではなく、部下に疑義を呈された時の条件反射的な制圧だった。「今回のプロジェクトのボーナスは全額君に出す。だから、すぐに来てこの場を収めろ」
詩織はその言葉を聞いて、無意識に口角を上げた。
ボーナス。また、ボーナス。
初めて接待の任務を引き受けた時も、彼はこう言った。まず「ご苦労」と労い、次に数字を提示する。まるで数字さえあれば、すべて帳消しにできるとでもいうように。
「承知いたしました」彼女は言った。「ですが、一つ条件があります」
「……条件?」
「今回は私が瑠璃の尻拭いをします。その代わり、私の退職を承認してください」
再び沈黙が落ちた。先ほどよりも長い。
詩織は急かすことなく、ただ待った。階下で誰かが笑っている。その声が柱を抜けて上がってくる。ふわふわとして、まるで別世界の音のようだった。
会場外の駐車場。蓮は噴水のそばに立ち、片手でスマートフォンを持ち、もう片方の手はスーツのポケットに突っ込んでいた。
細かく砕ける噴水の水音など、彼の耳には入っていない。
電話越しの詩織の声は、見知らぬ他人のように冷徹だった。意地を張っているわけでも、脅迫しているわけでもない。ただ平坦な口調で、感情の伴わない取引を持ちかけているかのようだ。
彼は眉をひそめた。
ここ数日、家の中は乱れていた。
気づいていないわけではない。朝、アイロンのかかったシャツがクローゼットの外に掛けられていることはなく、ダイニングテーブルに温かい食事はない。寝る前にカーテンが少しだけ隙間を開けて引かれていることもない。これまで気にも留めなかった些細なことが、この数日、針の先でつつかれるように一つ一つ浮かび上がり、彼を苛立たせた。
この時期が過ぎれば、詩織も機嫌を直して自然と戻ってくるだろうと思っていた。
彼女はいつもそうだ。少し騒ぎ立てても、最後は必ず戻ってくる。
退職願など、ただの脅しに過ぎない。彼はそう確信していた。
彼は声を和らげた。「この件が片付いたら、ずっと約束していたシベリア旅行に行こう」
この言葉なら効果があるはずだ。その旅行計画は、詩織が大学時代から口にしていたものだ。それを語る時の彼女の目が輝いていたのを、彼は覚えている。
電話の向こうから、ごく小さな笑い声が漏れた。
喜びの笑いでも、皮肉の笑いでもない。
すべてを見透かし、もはや語る価値すらないと見切ったような笑い。
「一年前からのことです」詩織の声は静かだった。「もう遅すぎます。離婚届が受理されれば、私たちは完全に赤の他人です」
蓮はスマートフォンを握りしめた。
「今、会場の前にいる。来い」
車に乗り込むと、車内は死に絶えたように静まり返っていた。
運転手がエンジンをかけ、窓の外の街灯が後方へと流れ始める。詩織は外の景色を見つめたまま、一言も発しなかった。
蓮は横目で彼女を一瞥した。
街灯の光が途切れ途切れに彼女の横顔を照らす。その表情は穏やかで、視線はどこか遠くへ向けられていた。意地を張っているわけでも、彼が宥めるのを待っているわけでもない。ただそこに座っている姿は、この車とは何の関係もない他人のようだった。
その感覚が、彼を不快にさせた。
以前の詩織なら、怒っていることがすぐに分かった。口を利かなくても、全身に張り詰めた空気を漂わせ、彼が非を認め、先に口を開くのを待っていた。彼はいつも後から口を開くようにしていた。先に話す方が不利になるからだ。
だが、今夜は違う。
彼女からその緊張感が消え、何かを待つ様子もない。何もかもが抜け落ちていた。
「詩織」
彼女は応えない。
「……俺が悪かった」
それでも、彼女は応えない。
彼はかすかに眉をひそめ、さらに何かを言おうとしたが、言葉が見つからなかった。口にした瞬間、その言葉が軽すぎると気づいていた。その場しのぎの言い訳のように。だが、どうすれば言葉に重みを持たせられるのか、彼には分からなかった。
彼と彼女が出会って十三年。
彼女の好きな色を知っている。寝る前に白湯を飲むことも、パクチーが苦手なことも。ストレスを感じると、親指で左手の薬指を繰り返し擦る癖があることも。
そして、今夜深紅のドレスを纏い、柱のそばで電話を受ける彼女が、これまで見た中で最も美しい姿の一つであることも、分かっていた。
だが、彼はそれを口にはしなかった。
車内の沈黙は、料亭の前に到着するまで続いた。
個室の襖が開くと、星野は上座に正座していた。
五十代前半。生え際は後退し、腰回りも数年前よりふくよかになっている。スーツのボタンはきっちりと留められているが、不摂生な中年の疲労感は隠しきれていない。手元の猪口は空で、蔑ろにされたことへの陰鬱な怒りが表情に滲んでいた。詩織が入ってくると、上から下へと値踏みするように視線を動かした。
瑠璃は脇の席に座っていた。目元を赤く腫らし、襖が開く音にすかさず視線を向ける。
詩織は真っ先に部屋へ入り、入り口で一歩立ち止まった。室内の配置を一瞥し、迷わず星野の正面へと進み出る。
「星野社長、本日は誠に申し訳ございませんでした」彼女の態度は恭しく、口調は平坦だった。一言一言、区切るように言う。「部下が若気の至りで、多大なるご迷惑をおかけしました」
そう言うなり、卓上の猪口を手に取り、立て続けに三杯を飲み干した。動作に無駄はなく、瞳は澄み切って、微塵の躊躇もない。
「新人の不作法」に責任を帰す。相手が降りるための階段は用意した。あとは相手がそれを踏むかどうかだ。
星野は彼女を見つめ、少しだけ表情を和らげた。長年商売をしてきて、数え切れないほどの修羅場をくぐってきた男だ。この態度が何を意味するかは分かっている。目の前の女の対応は見事だった。泣きべそをかいている小娘より、遥かに格上だ。
その時、再び襖が開いた。
瑠璃は現れた人物を見るや否や、堰を切ったように涙をこぼした。席から立ち上がり、すがるように飛びついていく。「蓮さん」
蓮は無意識に手を伸ばして彼女を受け止め、背中を軽く叩きながら、低く慰めの言葉をかけた。
彼の視線は室内を一周し、最後に詩織の上で止まった。
その一瞥には、言葉にできない責めるような色があった。彼女の到着が遅れたせいで、こんな事態になったとでも言いたげに。
詩織は彼の視線を受け止めたが、何の感情も浮かべなかった。すぐに視線を外し、再び星野へと向ける。
蓮が席に着くと、場の空気は少し和らいだ。いくつかお決まりの挨拶が交わされるうちに、星野の顔から陰鬱さが大半消え去った。彼自身、自分の立ち位置はよく分かっている。九条グループが西園寺のプロジェクトに目を向けただけでも、彼らの顔を立てたようなものだ。今夜の騒ぎは所詮、向こうの内部問題であり、自分には関係のないことだ。
仲居がタイミングよく入ってきて酒を注ぎ、なみなみと注がれた清酒の杯を瑠璃の前に押しやった。
瑠璃は微かに身をすくませ、まつ毛を震わせて、蓮のほうへと身を寄せた。
蓮は彼女の前の杯を一瞥すると、自然な動作でそれを手に取り、星野に向かって軽く掲げた。「今夜は当方の管理不行き届きで、社長をお待たせしてしまいました」
一気に飲み干し、彼女の代わりにその場を収めた。
星野は笑みを浮かべ、仲居に手を挙げて合図した。なみなみと注がれた酒が、今度は詩織の前に置かれる。「浅宮秘書も今夜はご苦労だった。さあ」
丁寧な口調だが、その場に乗じた探りの色が混じっている。
詩織が杯に手を伸ばしかけた時、蓮が微かに眉をひそめ、テーブルの縁を指で軽く叩いた。「彼女は胃が弱い。この杯も私がいただこう」
個室の中が、一瞬静まり返った。
星野は少し機嫌を損ねたようで、薄ら笑いを浮かべて口を開いた。
「九条社長、それはいけませんな。お二人の秘書に、これほど気を揉まれるとは」
彼は自分の杯を手に取り、手元で軽く回した。「九条社長は、どちらをお選びになるおつもりで?」
その言葉の裏には、蓮に選択を迫る意図があった。助けられるのは、どちらか一人だけだと。
