第7章

「源様」

中年の男は手を離した。

男は目の前に立つ人物が誰であるかを認識した。東京財界で彼のような中堅クラスの人間が、その顔を知らないはずがない。たとえ雑誌の表紙の遠景で一度見ただけでも、脳裏に刻み込まれるほどの存在感だ。

源氏財閥の現当主、源枢(みなもと かなめ)。

男の顔からみるみる血の気が引き、額にじっとりと汗がにじむ。無意識に半歩後ずさり、へつらうような笑みを浮かべた。その声は怯えで震えていた。

「源様、これは誠に申し訳ありません。彼女は私の——」

「黙れ」

源が言葉を遮った。

声は決して大きくないが、刃のように冷ややかだった。

源はもう男の方を見向くことすらしない。その視線は詩織の顔に注がれていた。彼女の片頬は赤く腫れ上がり、目尻には生理的な涙が滲んでいる。抵抗した際に噛んだのか、唇はわずかに切れ、華奢な肩が小刻みに震えていた。

源の喉仏が微かに動く。

「瑾也(ジンヤ)」

背後に控えていた若い助手が即座に前に出た。

「はい」

「連れて行け」

楠木瑾也は余計な動作を一切せず、真っ直ぐに中年の男へと歩み寄る。同時に、傍らから黒服のボディガードが二名現れ、男の両脇をがっちりと固めた。男は顔面を蒼白にして何か弁解しようとしたが、そのままエレベーターの方向へと引きずられていった。

一連の出来事は、十秒にも満たなかった。

廊下に再び静寂が戻る。

詩織は壁に寄りかかったまま、まだ足がすくんでいた。アルコールの回りと極度の恐怖が重なり、立っていることすらままならない。肩を壁に押し当てて、どうにかバランスを保っている状態だ。

源が彼女の目の前で立ち止まった。

すぐには口を開かず、わずかに身を斜めにすると、自分のジャケットを脱いで詩織の肩にふわりと掛けた。その動作は、今にも壊れてしまいそうな陶器を扱うかのように、静かで抑制が効いていた。

「歩けるか」

詩織は顔を上げ、彼を見た。

見覚えのある顔だった。夜会の黒狐の仮面、あるいはゴルフ場ですれ違った記憶。何か言葉を発しようとしたが、喉がカラカラに乾いていて音にならない。

ただ、こくりと頷いた。

源は彼女を抱え起こすことはせず、半歩横に退いて適切な距離を保った。

「来い」

詩織は下唇を噛み、気力を振り絞って彼の背中を追った。廊下は酷く長く感じる。照明の光が視界でチカチカと点滅し、胃袋が激しく波打っていた。吐き気を必死に飲み込みながら、一歩、また一歩と足を前に出す。

エレベーターの扉が開いた。

中に足を踏み入れた瞬間、限界まで抑え込んでいた胃のむかつきが、ついに決壊した。

詩織は勢いよく前かがみになり、とっさに手で口を覆ったが、堪えきれなかった。

彼女は、源のシャツに吐いてしまった。

酒の匂いと血の混じった生臭さが、彼の胸元を広く濡らす。

詩織は完全に硬直した。

頭の中で激しい耳鳴りが響く。謝らなければ、説明しなければと思うのに、喉からはひゅうひゅうと掠れた嗚咽しか漏れてこない。冷や汗と涙がぐちゃぐちゃに混ざり合って頬を伝う。自分の惨めさが限界に達していた。

源は動かない。

伏し目がちに、汚れた自身のシャツを見つめ、それから彼女を見た。

やがて、彼は静かに手を伸ばし、エレベーターの閉めるボタンを押した。

「構わない」

怯えきった猫をなだめるかのような、ひどく穏やかな声だった。

「まずは車に乗れ」

——

詩織が目を覚ました時、窓の外はすでに明るかった。

真っ白な天井、消毒液の匂い、ベッドの脇に立つ点滴スタンド。透明なチューブを数秒間見つめているうちに、意識がゆっくりと輪郭を取り戻していく。

病院だ。

指先を動かしてみると、手の甲に針が刺さっているのが分かった。体の中身がすっかり抜け落ちてしまったかのように、腕を持ち上げる力さえ入らない。

ドアが開き、若い看護師がトレイを持って入ってきた。詩織が目を覚ましているのに気づき、にこやかに微笑む。

「お目覚めですか? ご気分はいかがですか?」

詩織は掠れた声で尋ねた。

「私を……運んでくれたのは、誰ですか」

看護師は少し困ったように首を傾げた。

「そのあたりはちょっと分からないんです。昨夜運ばれてこられた時は、私、勤務時間外でしたので。ご家族の方に聞いてみられてはいかがでしょう?」

家族。

詩織は静かに目を閉じた。

私に家族などいない。

看護師は体温を測り終えると、いくつか注意事項を告げて病室を出て行った。再び静寂が戻り、点滴の落ちる微かな音だけが響く。

詩織は顔を横に向け、窓の外を見た。

日差しは眩しいほどなのに、どうしようもなく寒気を感じた。

それから間もなくして、再び病室のドアが開いた。

今度は足音がひどく荒々しい。革靴が床を乱雑に叩く音が響く。詩織が顔を向けるよりも早く、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。

「詩織!」

ベッドの脇に立った九条蓮の顔は暗く沈み、両目は血走っていた。昨日と同じスーツ姿だが、シャツの襟元は開き、袖のボタンも外れたまま。髪も乱れ、一睡もしていないのは明らかだった。

詩織は彼を見つめたまま、何も言わなかった。

九条蓮は身を屈め、ベッドの縁に両手をついて、押し殺したような低い声を出した。

「具合はどうだ? どこか痛むところはないか?」

詩織は視線を外し、再び天井へと目を向けた。

「何ともないわ」

「何ともないだと?」

九条蓮の声が突然跳ね上がった。

「昨夜血を吐いて、胃出血で病院に運ばれたっていうのに、何ともないだと?」

詩織は答えない。

九条蓮は彼女の横顔を凝視し、喉仏を何度か上下させた。何かを必死に抑え込んでいるかのようだ。しばらくして、彼が再び口を開いた。声はひどく嗄れていた。

「聞いたよ。あの男のことは、俺が処理する。お前に手を出したんだ、絶対に生かしてはおかない」

布団の中で、詩織の指が微かに握り込まれた。

彼女は顔を向け、真っ直ぐに彼を見た。

彼の首筋に、引っかき傷があった。

浅く、赤い線が、開いた襟元から見えない奥へと続いている。

その痕から目が離せなくなった瞬間、詩織の頭の中からすべての感情がすうっと消え失せた。

昨夜の個室でのあの一杯の酒。

彼が躊躇うことなく瑠璃を選んだこと。

瑠璃を連れて去る時、一度も振り返らなかったこと。

彼女は笑った。

自嘲するような、とても軽く淡い笑みだった。

「昨日、あなたは瑠璃を連れて帰ることを選んだわね」

その声は不気味なほど穏やかで、相手を責める響きすら持っていなかった。

「彼女には世話が必要で、私には必要ないとでも?」

九条蓮の顔色が変わった。

何かを弁解しようと口を開きかけたが、詩織がそれを遮った。

「蓮、離婚しましょう」

一言一句、はっきりと口にした。

もっと言い出すのが難しい言葉だと思っていた。だが実際に口に出してみると、心の底に重くのしかかっていた岩が取り払われたような感覚があった。

この瞬間、詩織はこれまでにないほどの軽さを感じていた。

九条蓮の瞳孔が急激に収縮した。

「あり得ない」

喉の奥から絞り出すような、ひどく低い声だった。

「離婚なんて、絶対にあり得ない」

彼は身を起こし、見下ろすような姿勢で彼女を睨みつけた。その目には、狂気じみた執着が浮かんでいる。

「お前は俺の妻だ。一生、俺の妻なんだ」

詩織は目を閉じた。

疲れた。

もう、彼のこんな言葉を聞きたくなかった。

九条蓮は彼女の蒼白な顔を見て、こくりと唾を飲み込んだ。深く息を吸い込み、少しだけ声のトーンを落とす。

「詩織、俺が悪かった。お前をあそこに一人で残すべきじゃなかった。俺は——」

彼は適切な言葉を探すように一瞬言葉を切った。

「あの男には罰を受けさせる。お前が倒れて入院したと聞いて、何もかも放り出して駆けつけたんだ。俺は……」

「何もかも放り出して?」

詩織は目を開き、彼を見つめた。

「じゃあ、その首の痕はどうやってついたの?」

九条蓮の表情が完全に凍りついた。

彼は手を伸ばして自分の首筋に触れた。まるで今初めて、そこに何があるのか気づいたかのように。

「俺は——」

「言い訳はいいわ」

詩織は静かに、だが決して揺らぐことのない決意を込めた声で遮った。

「とても疲れているの。もう話したくない。帰って」

九条蓮はその場に立ち尽くしたまま、動かなかった。

彼女の顔に何かの綻びを、まだ自分を気にかけているという証拠を必死に探そうとしているようだった。

だが、詩織はただ目を閉じ、二度と彼を見ようとはしなかった。

病室に、息が詰まるような沈黙が降り下りる。

長い沈黙の後、九条蓮は身を翻してドアへと向かった。

ドアノブに手を掛けたまま数秒間立ち止まったが、結局そのままドアを押し開けた。

背後でドアが閉まった瞬間、廊下から慌ただしい足音が聞こえ、それに続いて玲子の怒鳴り声が響き渡った。

「九条蓮、このクズ野郎!」

ドンッという、何かが壁に叩きつけられるような鈍い音。

「よくもどの面下げて来られたわね! 昨日あんな……」

玲子の声がふっつりと途切れた。誰かに制止されたようだった。

詩織の耳に、歯ぎしりをするような怒りに満ちた玲子の低い声が届いた。

「失せろ。二度と私の前に顔を見せるな」

廊下は再び静かになった。

病室のドアが開き、玲子が入ってきた。詩織が目を開けているのを見て一瞬驚いた顔をしたが、すぐに足早にベッドに近づいてきた。

「気がついたの? 具合はどう?」

詩織は彼女を見た。

「昨夜、私を運んでくれたのは誰?」

玲子は少し言い淀んだ。

「私にも分からないわ。病院から電話をもらって駆けつけた時には、もうあなたは病室にいたから」

彼女は一呼吸置いて、付け加えた。

「でも、昨夜の会場で源枢の姿は見かけなかったわ」

詩織は何も言わなかった。

脳裏に、廊下で見たあの冷たい顔がよぎる。肩に掛けられたジャケット。そしてエレベーターの中での、あの軽やかな「構わない」という一言。

玲子はベッドの脇に腰を下ろし、詩織の手をしっかりと握った。

「余計なことは考えないで。しっかり休んで、退院したら美味しいものでも食べに行きましょう」

詩織は彼女を見て、ふっと笑みをこぼした。

「玲子」

彼女は言った。

「ありがとう」

玲子の目頭が少し赤くなった。

「馬鹿なこと言わないでよ」

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