第8章
「明日の夜、パーティーがあるって礼(レイ)が」
玲子はスマートフォンの画面を詩織の目の前に突き出した。
「源氏のCEOに紹介してくれる人を見つけたそうよ」
詩織は視線を落として画面を一瞥したが、すぐには答えなかった。
玲子はスマートフォンを手元に戻す。
「あなたの経歴なら、源氏でも十分に重宝されるはずよ」
詩織はシーツの上に置いた指先に、微かに力を込めた。
「ええ」
玲子の言葉が事実であることは分かっている。だが同時に、別の懸念が脳裏を渦巻いていた。
——離婚協議は、まだ成立していない。
『絶対にあり得ない』。九条蓮が吐き捨てたその言葉が、錆びた釘のように心臓に突き刺さっている。
協議書にサインはした。だが、公証の手続きが終わるまでにはまだ時間がかかる。そして、蓮は黙って待つような男ではない。あの契約書の真の内容を知れば、あらゆる手段を使って離婚を阻止しにかかるだろう。
九条グループにこのまま留まれば、彼に弱みを握らせ続けることになる。
確固たる後ろ盾が必要だった。
源氏一族。
昨夜、肩に掛けられたジャケットの重みがふと蘇る。詩織は何かを思い出したように、微かに動きを止めた。
——昨日のあの男も、源と名乗っていた。
廊下で彼を見た時の、あの中年男の反応。あの怯えと震えは、単なる知人に対するものではない。明確な畏怖だった。あのクラスの人間をあそこまで萎縮させる存在といえば、直属の上司か、あるいは……。
源氏一族の中で思い当たる名前をいくつか頭の中で探ってみたが、どれも合致しない。
傍系の一族だろうか。
詩織はその憶測を口には出さなかった。
「分かったわ」
詩織は玲子に向き直った。
「明日、行ってみる」
——
午後の退院手続きは、想像以上に煩雑だった。
玲子はずっと付き添って手続きに奔走してくれたが、その間にも彼女のスマートフォンが三度鳴った。三度目の通話を終えると、玲子はナースステーションの前で眉間に皺を寄せ、詩織の方を振り返った。
「事務所の案件で、ちょっと厄介なことになってね。戻って処理しないと」
詩織は手元の書類を閉じる。
「行って。大丈夫だから」
「タクシーを呼ぶわ——」
「いいの。自分で歩けるから」
玲子は二秒ほど彼女をじっと見つめ、それでも心配そうに自分の車のキーを押し付けてきた。詩織はそれを受け取らず、玲子の手を押し返す。
「早く行って。時間に遅れるわよ」
玲子は小さくため息をつき、バッグを肩にかけて足早に出口へと向かった。廊下の突き当たりで一度振り返り、そのまま曲がり角の向こうへ消えていく。
詩織は病院の正面玄関に立っていた。
秋の風が少し冷たく、髪の毛が一束、頬にまとわりつく。無造作にそれを押さえ、玲子の背中が消えた方向を見つめていると、不意に漠然とした感覚に襲われた。
恐怖ではない。ただ——空虚だった。
最近、この感覚にはすっかり慣れてしまっている。
「浅宮(あさみや)様」
背後から声がした。
詩織は振り返る。
少し離れたところに、ダークグレーのスーツを着た若い女が立っていた。顔には計算し尽くされたような微笑みを浮かべ、姿勢は正しく、まとめ上げた髪には一糸の乱れもない。
「韓(ハン)弁護士の助手をしております。先生の指示で、お迎えに上がりました」
詩織はわずかに目を丸くした。
玲子が帰る前、そんなことは一言も言っていなかった。
「玲子からは何も——」
「急な手配でしたので」
女は表情一つ変えずに言葉を遮った。その笑みは寸分も崩れない。
「車はあちらです。どうぞこちらへ」
詩織はすぐには動かなかった。
女と、路肩に停まっている黒いミニバンを交互に見る。窓には濃いスモークが貼られており、中の様子は全く窺えない。
——神経質になりすぎている。
心の中でそう自分に言い聞かせた。
玲子が気を利かせて車を手配することは十分にあり得る。彼女はいつも事前に全てを説明するタイプではない。
数秒の躊躇いの後、詩織は歩みを進め、女の後を追った。
女が後部座席のドアを開ける。詩織が身を屈めて乗り込むと、革張りのシートは柔らかく、車内に不快な匂いもなかった。
カチャッ。
背後でドアのロックが下りる。
通常のドアが閉まる音とは違った。
詩織の背筋が凍りつき、勢いよく顔を上げる。
助手席に運転手はいなかった。
そこに座っていたのは、九条小百合子だった。
詩織の呼吸が一瞬止まった。
小百合子は体を斜めに向け、彼女を見つめている。その顔には、日常の些細な出来事に向き合うような、ゆったりとした穏やかな表情が張り付いていた。
「詩織さん。お久しぶりね」
その声は柔らかく、名家を仕切る婦人特有の優雅さを帯びている。
「少し、お話ししましょう」
詩織は無言を貫いた。
小百合子も急かすことはせず、いつもの姿勢を崩さない。背筋を伸ばし、上品に、薄い笑みを浮かべている。まるで丹念に祀られた陶器の仏像のように、一切の隙がない。
詩織は、この顔を長く見過ぎていた。
かつては、あの瞳の奥に真心があるのだと信じていた時期もあった。九条家に嫁いだばかりの頃、彼女はまだあらゆる物事に対して、意地に近いほどの期待を抱いていたのだ。
小百合子は『嫁教育』という名目で彼女に近づき、しきたりを教え、作法を説いた。宴席での座り方、九条家の親族に対する言葉遣い。詩織は真面目に学び、懸命に実践した。努力さえすれば、いずれこの家にも自分の居場所ができるはずだと信じて。
その『教育』が、彼女がいかに九条家に相応しくないかを測るための、精密な物差しでしかなかったと気づいたのは、ずっと後になってからだ。
箸の持ち方を間違えれば無作法とみなされ、正しければ媚を売っていると嘲笑われる。化粧が薄ければ場を軽んじているとされ、濃ければ軽薄だと言われる。口を開けば出過ぎた真似だと嗜められ、黙っていれば冷淡だと責められる。何をやっても欠点を指摘され、その度に詩織は立ち尽くし、途方に暮れるしかなかった。
蓮はそのことを知らない。
いや、彼女が一度も知らせなかったのだ。
これは嫁姑の間の摩擦であり、真心を尽くせばいつか必ず相手の心に届くはずだ。そう自分に言い聞かせて、彼女は長く耐え抜いてきた。
だが、ある日ようやくはっきりと理解した。小百合子は心の底から、詩織が九条蓮に釣り合わないと見下している。それは彼女が九条家の敷居を跨いだ最初の日から決まっていた揺るぎない結論であり、何をどうしようと覆るものではなかった。
「私に会いに来たのは」
詩織は口を開いた。自分の予想以上に平坦な声だった。
「何を確認するためですか?」
小百合子の笑みが、ほんのわずかに深くなる。
「あなたの口から直接聞きたかっただけよ」
その口調はあくまで余裕に満ちていた。
「あなたは本当に蓮と別れる気があるのか。それとも、ただ癇癪を起こしているだけなのか」
詩織は彼女を見据えたまま、しばし沈黙した。
「本当です」
車内に数秒の静寂が落ちる。
小百合子は視線を外し、再び前を向いた。表情に大きな変化はないが、ふっと安堵の息を吐き出したように見えた。
「そう。分かったわ」
それ以上の言葉はなかった。
ドアが再び開き、秋の風が吹き込んでくる。詩織は車を降り、一度も振り返らなかった。
——
須藤礼が迎えに来た時、彼女はワインレッドのジャケットに着替えていた。
詩織のマンションの下に立ち、片手をポケットに突っ込み、もう片方の手でスマートフォンを入り口に向けている。詩織が出てくるのを見つけるとスマートフォンをしまい、頭から爪先までじろじろと見回した。
「へえ。悪くないじゃない」
詩織は自分の着ているドレスに視線を落とす。
「悪くない?」
「思ってたよりはずっとマシってこと」
礼は詩織の周りを半周し、襟元にかかっていた一筋の髪を耳の後ろにかけてやった。
「これ、最後に着たのいつ? 三年前?」
「二年前よ」
「二年前ね」
礼は復唱して、鼻を鳴らした。
「もう少し自分を大事にしたらどうなの」
詩織は答えなかった。
礼もそれ以上は追及せず、助手席のドアを開けて顎をしゃくった。
「乗って。遅刻するわよ」
パーティー会場の入り口に車が滑り込む。
詩織が降り立つと、秋の夜風が彼女の髪を揺らした。片手で髪を押さえ、顔を上げる。
会場のエントランスは眩い光に包まれていた。着飾った招待客たちが三々五々集まり、グラスを片手に談笑している。彼女はこれまで、こういう場を嫌というほど経験してきた。接待、晩餐会、契約前の駆け引き。その度、彼女はいつも九条蓮の二歩斜め後ろに控え、ファイルを手にして待機するだけの存在だった。
だが、今夜は違う。
詩織はドレスの裾を整え、真っ直ぐに歩き出した。
周囲の視線が、ほぼ同時に彼女に向けられるのを感じた。目に見えない微細な粒子が肌に触れるような感覚。だが、詩織は歩みを止めなかった。その視線を受け止めようと顔を上げることもせず、ただいつもの歩幅で、堂々と前へ進む。
礼が顔を寄せ、声を潜めた。
「今の、気づいた? あなたが入ってきた瞬間、少なくとも七、八人は呆気に取られてたわよ」
「数えたの?」
「数えたわよ」
礼は胸を張った。
「あの足取り、あのオーラ。詩織、あなたがあんなクソみたいな会社で、あのクソ男の身の回りの世話なんてしてる場合じゃないのよ」
詩織はその言葉には直接答えなかった。
ただ、唇の端をわずかに持ち上げて笑みを返した。
「浅宮、どうしてあなたがここにいるの? 蓮のパートナーはこの私なのに!」
その時、甲高い女の声が響き渡った。
詩織が横を向くと、少し離れた場所に、シャンパンカラーのドレスに身を包んだ西園寺琉璃が立っていた。
