第1章
「神谷さん、相沢さんは妊娠3週目です。この時期に骨髄移植を行えば、お腹の子はまず助かりません」
「堕ろせ」
扉一枚隔てた向こうから、神谷陸の冷えきった声がした。
「萌が助かるなら、子ども一人どころか、相沢美月の命だって差し出させる」
診察室の外。
私は、ついさっき印刷されたばかりのエコー写真を握りしめていた。指の関節が白くなるほど強く。
この声を、聞き間違えるはずがない。
五年付き合い、もうすぐ結婚するはずだった婚約者――神谷陸だ。
私はぺたんとした下腹に目を落とした。
この子のために、私は何度も体外受精を繰り返してきた。神谷陸だって、同じように望んでくれていると信じていたのに。
それなのに、彼は中で医者と堕胎の相談をしている。
しかも私に骨髄移植を受けさせて、あの「高嶺の花」を救うつもりで。
白石萌の病気のためなら、神谷陸は真夜中だろうと私を置いて飛んでいく男だった。
男に忘れられない女がいるくらい、別に構わない。
一線さえ越えなければ、そう思っていた。けれど今は……。
背筋を、ぞわりと悪寒が這い上がる。
私は下唇をきつく噛みしめ、血の味が広がってようやく、扉を開けて問い詰めたい衝動を押さえ込んだ。
問い詰めて、どうするの。
どうしてそこまで残酷なのか、と?
五年の想いは何だったのか、と?
違う。
今の神谷陸は、ただただ気持ち悪い。
私は大きく息を吸い、胃の奥にこみ上げる酸っぱいものを無理やり呑み込んで、踵を返した。
「相沢さん!」
神谷陸に「先に帰る」とメッセージを送った直後、背後から低く切迫した声が飛んできた。
全身がびくりと強張る。
さっきの医者だ。
振り返りたくなくて、私は足を速めた。
「相沢さん、待ってください!」
すっと伸びてきた手が、私の行く手を遮る。
検査を担当した遠藤医師が、額に汗を浮かべて立っていた。診察室の閉まった扉を慌ただしく一瞥すると、声を潜める。
「相沢さん、少し場所を変えましょう。この件は……お腹のお子さんに関わる話なんです」
「子ども」という言葉に反射的に下腹を庇う。
「神谷陸に頼まれて中絶を勧めに来たなら、お引き取りください。私は、たとえ死んでも、この子に指一本触れさせません」
「違います、違います!」
遠藤医師は周囲を見回し、誰にも聞かれていないことを確かめると、私の腕を引いて階段の隅へ連れていった。
彼は額の冷や汗を拭い、震える声で言う。
「さっき神谷社長が中にいらしたので、本当のことを言えなかったんです。実は……実は、体外受精の検体が取り違えられていて」
頭の中が真っ白になった。
「……どういう意味ですか」
「その……体外受精をされた時、ちょうどシステムの更新と重なってしまって、看護師がコードを取り違えたんです」
遠藤医師はごくりと唾を飲み込んだ。
「相沢さんのお腹の子は、神谷社長の子ではありません」
――がんっ。
頭の中で、何かが派手に砕け散る音がした。
私は目を見開いたまま、息をすることすら忘れた。
「神谷陸の子じゃ、ない……? じゃあ……誰の……」
遠藤医師は顔面蒼白のまま、震える唇でその名を絞り出した。
「一ノ瀬蓮……一ノ瀬蓮さんのものです」
一ノ瀬蓮。
その名前が落ちた瞬間、階段室の空気が一気に凍りついた気がした。
帝都の社交界で、一ノ瀬蓮を知らない者がいるだろうか。
一ノ瀬家の当主。
苛烈で冷酷、情け容赦なく、頂点に君臨し、名だたる権力者たちですら息を呑む男。
五年前、彼が交通事故に遭った際、一ノ瀬家が跡取りを残すため、病院で精子を極秘に凍結保存した――そんな噂もあった。
その後、一ノ瀬蓮は奇跡的に回復したが、その凍結精子は使われないまま封じられた、とも。
まさか。
そんな偶然の悪戯で、私があの一ノ瀬蓮の子を身ごもるなんて。
「相沢さん、この件が神谷社長に知られたら、うちの病院は終わりです。それに一ノ瀬家に知られたら、私の命だって……!」
遠藤医師は今にも土下座しそうな勢いだった。
「どうかお願いします。この子は……その……」
言いたいことはわかる。
堕ろしてくれ――そういうことだ。
一瞬で頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。
神様は、私を弄んでいるの?
私はエコー写真に視線を落とす。
そこにいるのは、私の子だ。
神谷陸は、この子の父親にふさわしくない。
そして一ノ瀬蓮は、この街の権力者たちすべてが頭を垂れる男。
ふいに、狂気じみた考えが胸の奥で芽吹いた。
神谷陸は、白石萌のためなら何だって差し出すんでしょう?
私を、弱くて扱いやすい女だと、神谷家を離れたら生きていけない女だと、そう決めつけているんでしょう?
だったら――
この子を産んだら?
この子さえいれば、私は一ノ瀬家と交渉するための切り札を手にできる。
一ノ瀬蓮の子どもなのだから。
一ノ瀬家の力を借りられれば、腎臓一つ守るどころじゃない。
神谷陸と白石萌みたいな最低の男女を踏み潰すことだって、虫けらを潰すより簡単だ。
私は手を上げ、エコー写真についた皺をそっと伸ばした。瞳がわずかに揺れる。
「遠藤医師」
顔を上げる。
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「この医療事故、私は胸の内にしまっておきます。第三者に漏らすこともしません。ただし――父親が誰かについては」
私は遠藤医師の目をまっすぐ見据え、一語一語、区切るように告げた。
「私とあなた以外、誰にも知られたくありません。もし漏れたら……一ノ瀬蓮がどういう人か、先生のほうがよくご存じでしょう」
遠藤医師は肩を震わせ、何度も何度も頷いた。
「はい……はい! わかっています! 絶対に口外しません!」
病院を出た私はタクシーを拾い、神谷家の別荘へ向かった。
五年前、相沢家が没落し、両親を失ってからというもの、私はずっと気力を削られ続けてきた。
けれど今は違う。
この子のためなら、賭けてみてもいい。
玄関をくぐった瞬間、甲高い女の声が飛んできた。
「あら、お帰りなさい。ちゃんと戻ってくる気はあったのね」
ソファに座った神谷雅子は、こちらを見ようともしない。
「朝から姿が見えないと思ったら、どこで男でも漁っていたのかしら。神谷家も運がないわ。こんな疫病神を迎えるなんて」
神谷陸の母。
私にとって、将来の姑になる女だ。
神谷重臣が亡くなってから、彼女は露骨に私を見下すようになった。
子どもを身ごもるまでは神谷家の敷居を跨がせない――そんな条件まで突きつけてきた人でもある。
以前の私なら、神谷陸のために笑って頭を下げたかもしれない。
けれど今は……。
私は靴を履き替えると、そのままリビングを横切った。
視線すら向けない。
あからさまに無視された神谷雅子は、ぶちんとキレたように茶碗をテーブルへ叩きつけた。
「相沢美月! 私が話しているのが聞こえないの? 耳でも潰れたのかしら!」
立ち上がり、指を突きつけて喚き散らす。
「陸に甘やかされてるからって、調子に乗るんじゃないわよ! 自分が何様か、鏡を見なさい! 何年経っても子ども一人授かれないくせに、よくものうのうと居座っていられるわね! 陸が情けをかけてるから追い出されずに済んでるだけでしょう!」
私は足を止め、ゆっくり振り返った。
冷えた目で、まっすぐ神谷雅子を見据える。
本当に、笑える。
ついさっきまで、彼女の自慢の息子は病院で、私の子どもを殺す算段をしていた。
その母親は今ここで、私に「子どももできない女」と喚いている。
もし彼女が知ったら、どうなるだろう。
私のお腹の中にいるのが、一ノ瀬蓮の血を引く子だと知ったら――その顔はどれほど面白く歪むのか。
私は唇の端だけをかすかに持ち上げた。目は、まるで笑っていない。
「お義母さま、その言い方はどうかと思います」
「子どもができるかどうかは、私一人で決まる話ではありませんもの。お義母さまこそ、一度ご自分の大事な息子さんに聞いてみたらいかがです? 駄目なのが私なのか、それともあの人なのか」
「――っ! この恥知らずのクズが!」
