第2章
神谷雅子は怒りで全身をわなわなと震わせ、今にも噛みついてきそうだった。そのとき、脇からひとつの影が弾かれたように飛び出してくる。
神谷陸の妹、神谷沙織だ。
私のそばを通り抜けざま、何気ないふうを装いながら、足だけがするりと鋭く伸びた。狙いは明らかだった。私の足を引っかけて、転ばせるつもりだ。
……転ばせる気?
前の私なら、家庭の空気を壊したくなくて、黙って飲み込んでいたはずだ。自分が転んでも、笑って「私が不注意だっただけ」と誤魔化しただろう。
でも、今は違う。
お腹にいるこの子は、私にとって何より大事な切り札だ。
そして、神谷家を地獄へ叩き落とすための切り札でもある。
この一脚がまともに決まって、子どもに何かあったら――私は何を手札に一ノ瀬家と渡り合えばいい?
なんて陰険で、なんて悪辣。
そこまで情け容赦がないなら、もう私だって遠慮はしない。
目つきがすっと冷える。
私は身をひるがえすようにして横へ避けた。次の瞬間、反対の手でそのまま頬を張り飛ばす。
「パァン――!」
乾いた音が、広いリビングに鋭く響いた。
神谷沙織は叩かれた瞬間、何が起きたのかも分からないという顔で固まった。みるみる赤く腫れていく頬を押さえ、信じられないものを見るように私を睨みつける。
「相沢美月! あんた頭おかしいんじゃないの!? 私を叩いた!?」
金切り声が耳をつんざく。
「ここがどこだか分かってる? 神谷家よ! この恥知らずの女が、よくも私に手を上げたわね!」
痺れる手のひらを軽く振って、私は冷ややかに見返した。
「私はあなたの義姉よ。年長の義姉は、母にも等しいものだわ」
「お義母さまがあなたに礼儀を教える気がないなら、代わりに私が教えるだけ」
「――っ、この……!」
神谷沙織は顔を真っ赤にし、髪でも掴みちぎる勢いで私に飛びかかろうとした。
「やめろ!」
玄関のほうから怒声が飛ぶ。
神谷陸だった。足早にこちらへ来ると、神谷沙織をぐいと自分の後ろへ引き寄せ、険しい顔で私を見た。眉間には深い皺。露骨な非難の色が浮かんでいる。
「美月、どういうつもりだ」
「沙織はまだ若くて分別がないんだ。お前まで本気で張り合ってどうする。しかも手まで上げるなんて」
その言葉を聞いた瞬間、胃の奥がむかりとひっくり返った。
若い?
神谷沙織は今年24だ。私とたった1歳しか違わない。
身内にだけ甘いところは、昔から何ひとつ変わっていない。
以前の私なら、もう目を赤くして、必死に弁解していたかもしれない。悔しい、悲しいと訴えていたかもしれない。
でも今は、ただ滑稽だった。
私は冷えきった目で、彼の偽善めいた顔を見つめる。
「さっき、この人は私を転ばせようとした」
それだけ告げてから、私は神谷陸に一歩近づいた。そして、二人にしか聞こえない声で囁く。
「神谷陸。私、いま妊娠してるの」
「さっきの一脚で私が転んで、流産でもしたら――誰の責任になるの?」
神谷家の人間は、まだ私の妊娠を知らない。神谷陸が言わない限り、私から教えるつもりもなかった。どうせ彼の腹の内は読めている。むしろ、この先どんな顔をするのか見物したいくらいだ。
案の定、神谷陸の表情がぴたりと固まった。
視線が反射的に私の腹へ落ちる。そこに浮かんだ「焦り」を、私は見逃さなかった。
でも、それは子どもを案じる目じゃない。
彼が慌てたのは、白石萌を救うための骨髄のことだ。
医者から言われているのだろう。移植前は、私の身体を万全の状態に保たせろと。もし流産して大量出血でもしたら、白石萌のほうが困る。
「沙織! お前、何を考えてる!」
神谷陸は勢いよく振り返り、神谷沙織をきつく睨みつけた。
「早く、美月に謝れ!」
神谷沙織は目を潤ませ、悔しさに唇を震わせる。
「お兄ちゃん! なんでこの女の肩を持つの!? 叩いたのはこいつなのに……!」
「黙れ!」
神谷陸が低く怒鳴った。
それから彼は私に向き直ると、さっきまでの苛立ちをきれいに引っ込め、いかにも情の深い男みたいな顔を作る。そして肩を抱こうと手を伸ばしてきた。
「美月、もう怒るな」
「沙織が母さんに甘やかされて育ったのは、お前だって知ってるだろ」
「部屋に戻ろう。少し話そう」
込み上げる吐き気を押し殺し、私はその手を振り払わなかった。
まだ、完全に決裂するときじゃない。
寝室へ戻り、扉が閉まるやいなや、神谷陸は待っていましたとばかりに口を開いた。
「美月、辛い思いをしたのは分かってる」
「でも、母さんと沙織は俺の家族なんだ。俺のためだと思って、もう少しだけ我慢してくれないか」
「結婚したら、二人で外に住もう」
……また、それだ。
空手形。口先だけの約束。
この5年、そんな台詞をいったい何度聞かされたことか。
私はベッドの端に腰を下ろし、視線を落として目の奥の嘲りを隠した。ふたたび顔を上げたとき、そこにあるのは傷ついた女の顔だけだ。
「神谷陸、私だってあなたの家族じゃないの?」
「この家でずっと冷たい目を向けられて、平気でいられるほど私は頑丈じゃない」
「……もう限界なの」
神谷陸の顔色が変わる。
「美月、それってどういう意味だ」
私は深く息を吸い、まっすぐ手を差し出した。
「お金がほしい」
「……は?」
神谷陸が目を見開く。
「この家で尊重されないなら、せめて現実的な埋め合わせはしてもらうわ」
彼の目を逸らさず、私は一語ずつ、はっきりと告げた。
「1億」
「ここ数年の慰謝料。それから、お腹の子のための養育費の前払いとして」
神谷陸は息を呑み、見る間に顔を曇らせた。
「ふざけるな。1億だと?」
「神谷グループだって、いま資金繰りが楽じゃないんだぞ……」
「じゃあ、話は終わりね」
私は立ち上がり、スーツケースへ手を伸ばす。
「それなら、この子も産まない」
「こんな家に生まれてきたって不幸になるだけよ。今から病院へ行って堕ろす。それで全部終わりにする」
「待て!」
神谷陸が慌てて私の手首を掴んだ。こめかみに青筋が浮いている。
「美月、やめろ……! そんなふうに感情で動くな!」
彼は私の腹を凝視したまま、激しく葛藤していた。
1億で、白石萌の命が助かるのか。
助かる。
安すぎるくらいだ。
私がそのまま適合検査まで受けてしまえば、あとは脅そうが閉じ込めようが、いくらでも手段はあると彼は考えているのだろう。
神谷陸にとって私は、歩く骨髄の供給源でしかない。
「……分かった」
長い沈黙の末、神谷陸は歯を食いしばりながら言った。
「払う」
「だが美月、今日からちゃんと体を大事にしろ」
心の底で私は冷たく笑う。
「ええ、もちろん」
10分後。
スマホが震え、1億の入金通知が表示された。
画面に並ぶ数字を見ても、胸は少しも動かない。
神谷陸は「会社に用事がある」と言い残し、苦い顔のまま出ていった。1億を持っていかれたのが惜しいのもあるだろうし、白石萌のところへ急ぎたいのもあるのだろう。
大金を失って傷んだ気分を、あの女のところで慰めてもらいに行く。きっとそんなところだ。
彼が完全に去ったのを確認すると、私は部屋の鍵をかけた。スマホを取り出し、素早くメッセージを打ち込む。
宛先は、文字化けした番号。
本文は一行だけ。
【金は入った。神谷ホールディングスのこの5年分、脱税も粉飾も全部洗って】
3秒も経たないうちに返信が来る。
【K】
私はすぐに履歴を消し、窓際まで歩いた。
階下では、神谷陸の車が赤いテールランプを引いて走り去っていく。それを眺めているうちに、胸の内はますます冷えきっていった。
そのとき、扉がこんこんと叩かれる。
「美月様」
執事の声だった。
「雅子様よりお伝えいたします。明日は神谷家の家族の集まりがございますので、ご準備をとのことです」
家族の集まり?
私は眉を上げ、鏡の中の自分に向かってゆっくり唇を吊り上げた。
「ええ。雅子様に伝えてちょうだい」
「私も、しっかり準備しておきます――と」
