第3章
翌日の夜、神谷本家は隅々まで明るく灯されていた。
私はヌードベージュのニットのセットアップに身を包み、ホールへ足を踏み入れた。その瞬間、神谷雅子の隣に座る白い影が目に入る。
白石萌だった。
高級なドレスをまとい、いかにも作り込んだ薄化粧で、口元を押さえながらくすくすと笑っている。
その傍らには神谷陸。
葡萄の皮をむいては、わざわざ彼女の口元へ運んでいた。
ずいぶん仲のいいご一家だこと。
おかげで、ついさっきこの家に入ってきたばかりの正式な婚約者である私のほうが、よほど場違いな余所者に見える。
真っ先に私を見つけた神谷雅子が、すぐさま鼻で笑った。
「いまさら来る気になったの? 年長者やお客様を待たせるなんて、たいしたご身分ね」
周囲の客たちの視線が、いっせいにこちらへ集まる。
白石萌は慌てたように立ち上がり、健気で物わかりのいい女を演じ始めた。
「おばさま、どうか美月さんを責めないでください。きっと道が混んでいて遅くなっただけです」
そう言ってから、彼女は私へ顔を向ける。
目の奥に挑発の色をきらりと走らせながら、表情だけは可憐そのものだった。
「美月さん、怒らないでくださいね。私が陸さんにお願いして連れてきてもらったんです。おばさまがずっと私に会いたがってくださっていたから、少しお顔を見に来ただけで……」
「もし気になるなら、私、いま帰ります……」
言うやいなや、彼女の目元はたちまち赤く染まる。くるりと背を向ける素振りまで見せた。
神谷陸がすかさずその手首をつかんだ。眉を寄せ、苛立ちを隠そうともしない目で私を見る。
「相沢美月、萌は体が弱いんだ。少しは大目に見られないのか」
神谷雅子も負けじと茶碗を重く置いた。
「何が帰る、よ。誰があなたを帰らせるっていうの」
「今日ははっきり言っておくわ。萌はもともと白石家のお嬢さん。それに、私――神谷雅子が娘同然と認めている子よ」
「それに引き換え、ある人のことは私は一度だって認めた覚えはないけれど」
私は怒るどころか、むしろ笑いそうになった。
娘同然。
そんな作り話、信じるのは当人たちだけだろう。
どこの家に、兄が葡萄をむいて口まで運ぶ娘がいるのかしら。
私はそのまま空いている席まで歩いていき、腰を下ろした。スカートの裾を軽く整え、涼しい顔で口を開く。
「お義母さま、冗談がお上手ですね。白石さんは神谷家のお客様なのでしょう? でしたら、私が追い出す理由なんてありません」
「白石さんさえご自分を身内と勘違いなさらないなら、人数が増えて賑やかなほうが結構ですし」
白石萌の笑みが、ほんの一瞬だけ引きつった。
たぶん思ってもみなかったのだろう。
これまでの相沢美月なら、悔しくても飲み込んで、黙って耐えるだけだったのに。今日の私は、少しも取り乱さない。
やがて晩餐が始まった。
使用人たちが、手の込んだ料理を次々と運んでくる。
神谷雅子はことさらに慈愛に満ちた声を作り、白石萌に言った。
「萌、あなたの好きなものばかりよ。たくさん召し上がりなさい」
白石萌は恐縮したように受け取る。
「ありがとうございます、おばさま。いつも本当にお優しくて……」
その言葉にも視線にも、こちらへ見せつける意図が透けていた。
私は口元にごく薄い笑みを浮かべる。
どうぞ。
たくさん召し上がって。
それ、私がわざわざ厨房でひと手間加えておいたものだから。
白石萌は、人前で名家の令嬢らしさを崩すまいと、ちまちま、ちまちまと口をつけていた。
その横で神谷沙織は、相変わらず私に嫌味を飛ばしてくる。
「ほんと、身の程ってあるわよね。萌お姉さまみたいに、生まれつき大事にされる運命の人もいればさ」
私は聞こえないふりをした。
そして、白石萌がようやく食べ終え、立ち上がって皆に挨拶の杯でも向けようとした、その時――
ぐるるるっ。
彼女の笑顔がぴたりと固まった。
腹を押さえた白石萌の顔色が、さっと青ざめる。額には細かい汗がにじんでいた。
「萌、どうした?」
神谷陸が立ち上がり、慌てて彼女を支える。
「お腹が……」
そこまで言いかけた次の瞬間。
ぶっ――!!
盛大すぎる音が、食卓の空気を真っ二つに裂いた。
直後、鼻を突くような悪臭が一気に広がる。
場はしんと静まり返った。
さっきまで白石萌を褒めそやしていた客たちも、今ではそろって口元と鼻を押さえている。
白石萌はその場で凍りついた。
一生のうちでも、これほどの恥はそうないだろう。
「まあ……」
私はわざとらしく口元を覆い、周囲にしっかり届く声で言った。
「白石さん、どうなさったんですか? お腹の具合でも悪いんですか? こんな大事な席で……ずいぶん気取らないんですね」
「あなた――!」
白石萌が怒りで顔を歪めた、その直後。
ぶっ――!!
今度はさっき以上にはっきりと、容赦のない音。
これには神谷陸ですら眉をひそめ、半歩後ずさった。
匂いがあまりにも強烈だったのだ。
「うっ……」
いちばん近くにいた神谷沙織が、その場でえずいた。
駆け寄ろうとしていた神谷雅子も、さすがに足を止める。顔色は鉄のように青い。
「何をしてる! 早く白石さんを下がらせろ!」
神谷陸が顔を真っ黒にして怒鳴った。
白石萌は泣きながら顔を覆い、そのまま一目散に走り去っていく。
――見ものだった。
私は席に座ったまま、その茶番を眺める。胸の奥が痛快さで満ちていった。
これでどうするつもりかしら。
今日のあとで、あの白石萌が平然と顔を上げて歩けるものなら、見てみたい。
騒ぎのせいで宴はあっけなくお開きになった。
私は体調が悪いと口実をつけ、ひと足先に二階へ上がる。
書斎の前を通りかかった時、扉がわずかに開いているのに気づいた。中から、神谷陸の声が低く漏れてくる。
「萌、今日はつらい思いをさせた。あれは事故だ、気にするな」
「ううっ……陸さん、私、もう人前に出られません……」
白石萌はしゃくり上げながら泣いていた。
「それに、私の病気も……先生に、もうこれ以上は待てないって……」
「心配するな」
神谷陸の声は断ち切るように鋭かった。
「もう手は打ってある。あと数日したら、相沢美月をうまく病院の検査に連れて行く。そのまま手術室へ入れればいい」
「麻酔さえかけてしまえば、骨髄だろうが何だろうが、あいつに拒む余地なんてない」
「でも……美月さんが納得するでしょうか……」
「納得なんか必要ない」
神谷陸の声音には、ぞっとするほどの冷たさが滲んでいた。
「お前を救うために命を使えるなら、あいつにとっては名誉だろ」
扉の外。
私は服の裾をきつく握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
予想はしていた。
それでも、神谷陸の口からここまで悪辣な算段を聞かされると、全身の血が冷えていくのを感じた。
私は物音ひとつ立てず、その場を離れて自室へ戻る。
それから黒のスポーツウェアに着替え、キャップを深くかぶった。窓から身を滑らせ、神谷家を抜け出す。
向かう先は闇市。
今の私は妊娠している。検査値の面でも、手術に耐えうる状態ではない。
だから必要なのは、重度の貧血と凝固機能障害を示す偽の診断書だった。
それさえあれば、万が一無理やり手術台に上げられても、医者はそう簡単にメスを入れられない。
闇市は城南のスラム街のさらに奥。
人も物も入り乱れ、何が出てきてもおかしくない場所だ。
私は偽造書類を扱う店を探し当て、欲しかったものを買った。
診療所まがいの店を出る頃には、外はすっかり夜になっていた。
診断書を胸元にしまい、立ち去ろうとした、その時。
路地の奥から激しい乱闘の音が響いてきた。
もともと厄介ごとに首を突っ込む気はない。
そのまま離れようとした矢先、いきなり一本の手が私の足首をつかんだ。
「助け……て……」
心臓が跳ね上がる。慌てて振り払おうとして――次の瞬間、わずかな灯りの中で、その男の袖口が目に入った。
一ノ瀬家の家紋。
私は思わず眉を上げた。
一ノ瀬家の人間……?
視線を落とす。
男は血まみれだった。
顔には銀色のハーフマスク。見えているのは形のいい唇と、刃物のように鋭い顎の線だけ。
背後から、ばたばたと乱れた足音が迫ってくる。
「探せ! 深手を負ってる。遠くへは行けねえ!」
緊張で息が詰まりそうになる。
それでも、私は賭けることにした。
身をかがめ、重い男の体をどうにか肩で支える。ずるずると引きずって、脇の廃棄物の山の陰へ押し込んだ。そこらにあったものをかぶせる。
「声を出さないで」
直後、黒服の男たちが追いついてきた。
「おい、そこの女! 怪我した男を見なかったか?」
私は怯えたふりで、震える指を反対方向へ向ける。
「あっ……あっちへ、逃げていきました……」
連中は深く疑いもせず、悪態をつきながらそちらへ駆けていった。
足音が完全に遠ざかったのを確認してから、私はその場にへたり込む。肺が焼けるみたいに息が荒かった。
男はすでに目を覚ましていた。
真っ黒な瞳が、じっと私を射抜いてくる。底には剥き出しの殺意が渦巻いていた。
「お前は誰だ」
私は唾を飲み込み、どうにか平静を装う。
「あなたの命の恩人よ」
