第1章

今日だけで、もう何度目になるだろう。私はノートパソコンの画面を、まるで宿敵でもあるかのように睨みつけていた。真っ白な文書ファイルの上で、点滅を繰り返すカーソルが私を嘲笑っている。

『婚姻状況の変化が成人の脳の可塑性に与える影響――長期追跡研究』

我ながら、素晴らしいタイトルだと思う。コンセプトも画期的だ。ただ一つ、致命的な問題があった。一体どこの誰が、科学の発展のためだけに、金のない博士課程の学生と偽装結婚してくれるというのか。

西日の差し込む午後の研究室は、サーバーの低い唸りと、私の深いため息だけが響いていた。ぐっと両の掌を目に押し当てると、大学院での四年間という月日の重みが、ずしりと肩にのしかかる。この研究は成功させなければならない。結婚という人生の大きな転機が脳に与える影響は、いまだ解明されていないフロンティアなのだから。

だが、青川理工大学の倫理審査委員会が求めるのは、正真正銘の被験者だった。そして、私が声をかけた男性は皆、面白いほど綺麗に、この突飛な提案を鼻で笑い飛ばした。

「相川君、倫理審査会の最終承認、明日の朝になったよ」

ふいに背後から声がかかった。振り返ると、指導教官である田中教授が心配そうな顔で立っている。その表情に、私の胃はきりりと痛んだ。

「本当にこの研究テーマで進めるつもりかい? 今からでも……もっとオーソドックスなものに変更することはできるんだよ」

私は無意識にペンの先を噛んでいた。学部生時代からの、緊張したときの癖だ。

「大丈夫です、教授。この研究には、意味がありますから」

『たとえマッチングアプリで片っ端から「科学のために結婚してください」ってメッセージを送る羽目になったとしても』

田中教授は、私の痩せた肩をぽんと軽く叩いた。

「君の熱意は素晴らしい。だが、科学には実現可能性というものも必要なんだ」

教授が去ったあと、私は椅子にずるずると崩れ落ちた。いっそ、実験用のラットでも研究していればよかった。少なくとも彼らは、婚姻届の話をした途端に連絡を絶ったりはしない。

コン、コン、と控えめなノックの音に、私は顔を上げた。

――その瞬間、心臓が、文字通り止まった。

「よう、恵莉奈」

神谷瑛斗。

卒業から四年も経つのに、彼は今でも青川理工大学のパンフレットから抜け出してきたようだった。いつだって完璧に整えられたダークブラウンの髪も、かつて女子学生の半分を虜にした青みがかった瞳も、昔のまま。ただ、体にぴったりと合った上質なネイビーのスーツだけが見慣れなかった。成功は、彼によく似合っている。

「瑛斗……?」

なんとか声を絞り出し、私は慌ててノートパソコンを閉じた。

『お願い、顔にペンのインクがついていませんように』

「どうして、ここに?」

彼はドアフレームに軽く寄りかかり、見覚えのある、あの人懐っこい笑みを浮かべた。こちらの思考を根こそぎ奪い去ってしまう、危険な笑顔だ。

「面白い研究パートナーを探してる子がいるって、人づてに聞いてさ」

『大輝か。彼の元ルームメイトが、うちの心理学部にいるものね』

「研究パートナー……?」

ショート寸前の脳で、私は努めて平静を装った。目の前にいるのは神谷瑛斗。キャンパスのゴールデンボーイ。情報工学の天才。私が分厚い有機化学の教科書の陰に隠れている間、彼に話しかけようとする女の子たちが、文字通り列をなしていた、あの人だ。

彼はポケットに両手を突っ込んだまま、悠然と研究室に入ってくる。

「大輝から聞いた。結婚と脳の変化について調べてるんだってな。被験者、必要だろ?」

『冗談でしょ』

「これ、普通の研究じゃないの」私は慎重に言葉を選んだ。「独身から既婚に移行する間の、脳の神経活動を継続的にモニタリングする必要がある。つまり……本当に、結婚してもらうことになる」

「だろうな」

こともなげに言って、彼は私の机の端に腰掛けた。すでに警鐘を鳴らしている心臓には、近すぎる距離だ。

「一時的な契約だろ? 科学のための」

私は、彼の顔をまじまじと見つめた。

「私と、偽装結婚したいってこと? 私の、研究のために?」

「なにか問題でも? 君は結婚を経験する被験者が必要で、僕は親から『早く身を固めろ』って言われるのにうんざりしてる」まるで近所のカフェにでも誘うような気軽さで、彼は肩をすくめた。「ウィンウィンじゃないか」

『ありえない。本気でありえない』

「どうして、私なの?」その疑問は、考えるより先に口から滑り出ていた。「あなたなら、誰にだって頼めるはずなのに」

彼の表情に、読み取るにはあまりにも速すぎる何かがよぎった。

「これは純粋にビジネスだ。面倒な感情のもつれはなし。その点は、お互い分かり合えるだろ?」

『ビジネス? あなたと?』

それでも、私の研究は――これなら、実現できるかもしれない。社会的地位も教養も申し分ない、まさに理想的な被験者。彼ほど協力的な参加者ならば、倫理審査会も即座に承認を出すはずだ。

「いつ、それを……」

自分がこの提案を真剣に検討していることが、信じられなかった。

「明日の朝はどうだ? 市役所は九時に開く」

私は彼の真剣な眼差しと、このままでは水の泡と化す、数ヶ月分の努力が詰まったノートパソコンとを交互に見つめた。

『最悪、何が起こるっていうの』

「わかったわ」

自分のものではないような声が、静かな研究室に響いた。

「結婚しましょう」

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