第2章
水曜の朝にしては、新月市役所は意外なほど人でごった返していた。私はシンプルな紺色のワンピースの裾をそっと伸ばす。研究室の薬品の染みがついていない、私にとって唯一の勝負服だ。込み上げてくる過呼吸を、必死で喉の奥に押しとどめた。
対照的に、神谷瑛斗はまるでいつもの会議にでも出席するかのように、落ち着き払って書類をめくっている。その腹立たしいほどの冷静さが、彼の着こなす上質なスーツをさらに際立たせていた。昨夜、彼がこともなげに買ってきた金のシンプルな指輪が、プラスチック製の硬い椅子の隣で、小さな箱の中から静かにこちらを窺っている。
『これ、本当に現実なのよね』
「桜井恵莉奈様、神谷瑛斗様」
係員の事務的な呼び声に、びくりと体が震えた。
『いよいよ、か』
通された小部屋は、いかにも役所の一室という風情で、殺風景なほどに飾り気がない。幼い頃に夢見た結婚式とは、あまりにもかけ離れていた。担当の田中と名乗る職員は、私たちが机の前に座ると、貼り付けたような笑みを浮かべた。
「それでは、婚姻届の内容を確認させていただきます」
ちらりと盗み見た瑛斗の横顔に、大学時代の、あの甘酸っぱい胸の痛みが蘇る。
『集中しなきゃ。これは、あくまで研究のためなんだから』
「こちらにご署名とご捺印をお願いします」
私がペンを握った、その瞬間。空気にぱちりと静電気が走ったかのような、奇妙なめまいに襲われた。瞬きをすると、一瞬だけ、瑛斗の頭上に半透明の文字が幻のように浮かんで見えた。
『サインした……たとえ形だけでも、彼女はもう僕の妻なんだ……』
私は小さく頭を振った。ストレスによる幻覚。そうに違いない。
続いて瑛斗が、流れるような動作で署名を済ませ、印鑑を押す。その指先まで自信に満ち溢れていた。だが、またしても、あの半透明の文字が目の前に現れる。
『彼女の字、今も変わらないな……昔、彼女がノートを取るのを見るのが好きだった……』
『なんなのよ、これ?』
田中さんが書類を確認し、慣れた手つきで受理印を押した。
「これで手続きは完了です。本日より、お二人は正式にご夫婦となられます」
私たちは無言で立ち上がった。この後のことなど、何一つ話し合ってはいなかった。
また文字が明滅する。
『これで終わり? なんだか拍子抜けだな……でも、これが現実なんだ……』
瑛斗が不意に振り返り、私に小さく微笑みかけた。その不意打ちに全身を微弱な電流が走り、顔がカッと熱くなるのを感じた。
『この反応、可愛いな』
「手続きが完了いたしました。おめでとうございます」
二十分後、私たちは市役所近くの喫茶店にいた。公的に夫婦となった、という事実が重く気まずい沈黙となって、二人の間に横たわっている。
私はコーヒーを口に運びながら瑛斗を観察し、さっきの奇妙な現象を確かめてみた。彼はスマートフォンをスクロールしている。きっともう仕事のメールをチェックしているのだろう。
すると、またあの半透明の文字が浮かび上がった。
『混乱してるみたいだ……後悔してないといいけど……あのワンピース、よく似合ってるな……』
私は危うくコーヒーを噴き出しそうになった。
「今、私のこと似合ってるって言った?」
瑛斗が驚いたように顔を上げた。
「何も言ってないけど」
『うそ……。彼の心の声が、本当に聞こえてる』
また文字が明滅した。
『なんであんな風に僕のこと見てるんだ? 何かまずいことでもしたか?』
「何もまずいことしてないよ」
思わず、声が出ていた。彼の眉が、ぴくりと跳ね上がる。
「まずいことしたかなんて、聞いてないけど」
心臓が、彼にまで聞こえてしまうのではないかと思うほどうるさく鳴っていた。ありえない。人が心を読むなんて。しかし、どうやら私にはそれができるらしい。かつて論文で読んだ、脳波の周波数に関する神経同期の研究が、恐ろしいほどの現実味を帯びて目の前に突きつけられていた。
『これって、私にとって最高の幸運? それとも、最悪の……』
「恵莉奈? 幽霊でも見たような顔してるぞ」
私は無理矢理に頬を緩めた。
『そんな単純な話なら、どれだけよかったか』
ふと、四年前の記憶が鮮やかに蘇る。図書館の片隅から、瑛斗がいつも陣取っていたコンピューター室を盗み見ていた、あの頃。彼はいつも、コーディングの課題で助けを求める女子学生たちに囲まれていた。無限とも思える忍耐力でアルゴリズムを解説する彼を眺めながら、自分とは住む世界が違うのだと、言い聞かせていた。
『完璧すぎる……。勉強に集中しなさい、恵莉奈。彼みたいな人は、あなたみたいな地味な子には気づきもしないんだから』
でも、もしあの頃、彼の心の声が聞こえていたとしたら……。
改めて、目の前の男を見る。仕事で成功し、相変わらず魅力的で、そして左手の薬指には、先ほど私がはめたばかりの指輪が光っている。
『四年経っても、彼はやっぱり完璧。でも今度は、私に切り札がある』
「僕の家に行くか?」
瑛斗が立ち上がりながら尋ねた。
「いや、僕たちの家か。研究のためにな」
『私たちの家』。その響きに、またお腹のあたりが妙にざわついた。
彼の運転する車の中で、私は指にはまった結婚指輪の、まだ慣れない重みをもてあそんでいた。すると、また彼の思考が流れ込んでくる。
『本当に僕の指輪をはめてる……神谷夫人か……悪くない響きだな……』
私は笑みを噛み殺した。この読心能力、案外楽しいかもしれない。
だが、その直後に聞こえてきた言葉に、私の顔から笑みが消えた。
『あとは、僕がしくじらないようにするだけだ……僕の本当の気持ちだけは、絶対に知られるわけにはいかない……』
背筋が、すっと冷たくなる。
『本当の気持ち? それって、一体どういうこと?』
私は運転する彼の横顔を見つめながら、この奇妙な能力が、自分が思っていたよりもずっと多くのことを暴いてしまうかもしれないと予感していた。そして、神谷瑛斗が隠している秘密が何であれ、それを受け止める覚悟が自分にあるのか、私にはまだわからなかった。










