第1章
愛莉視点
「ママ……血が、いっぱい……」
後部座席から聞こえた結衣のうわ言は、まるでみぞおちを殴られたような衝撃だった。ハンドルを握る手が白くなるほど強く食い込む。ダッシュボードの時計は午前三時十七分。心臓が早鐘を打つ中、私は美山町の無人の通りを疾走していた。
「シーッ、大丈夫よ。ただの悪い夢だから」
震える声でそう返した。けれど、二人とも分かっていた。それが夢なんかじゃないことを。
血は本物だった。夫の森本啓介の血だ。結衣のピンクのパジャマに、キッチンの床に、そして私の震える両手に飛び散った血。三時間前、私はついに反撃に出た――包丁を握りしめ、五年間に及ぶ地獄を終わらせたのだ。
今や私は、人殺しだった。
年季の入った軽自動車が喘ぐような音を立てて中央通りを曲がる。頼むから壊れないで、と祈るしかなかった。こんな場所で立ち往生するわけにはいかない。結衣は高熱にうなされているし、逃げ込める場所なんてたった一つしかないのだから。五年前に私が破滅させた男、黒崎達也のところへ。
一体何を考えているんだろう? 正気の沙汰じゃない。でも、結衣には医者が必要だった。それに、この小さな町なら啓介の金もコネも届かないはずだ。次の手を考える時間が稼げるかもしれない。
結衣がまた小さく声を上げた。バックミラー越しに見る娘の顔は赤く火照り、髪の毛は汗で濡れそぼっている。最後に測ったときは四十度もあった。一刻の猶予もない。
無人の駐車場に車を滑り込ませ、エンジンを切る。静寂が耳に痛い。
チャイルドシートから結衣を抱き上げると、ぐったりとした体が私の胸に焼けるような熱を伝えてきた。玄関へ走り、ドアを叩く。
「すみません!すみません!」叩く手に力がこもる。「誰かいらっしゃいませんか!」
足音が近づいてくる。ドアが開き、そこに立っていたのは見知らぬ女性だった。無造作なお団子にした赤褐色の髪、心配そうに見開かれた緑色の瞳。スクラブの上にカーディガンを羽織ったその姿は、飾らない美しさを放っていた。
達也じゃない。別の女性だ。
「どうされましたか?」優しく、けれど切迫した声。
「娘が……ひどい熱なんです。お医者様に診ていただきたくて」私は結衣を抱き直しながら、しどろもどろに言った。「黒崎先生はいらっしゃいますか?」
彼女の視線が結衣に注がれ、また私に戻る。「私、白石茜と申します。看護師をしています。達也は急患で出ておりまして......でもとりあえず中へどうぞ。拝見させていただきますね」
白石さん。そうか。きっと手作りのお菓子を近所に配ったり、地域のボランティアに参加したりするような、完璧で品のある女性なんだろう。
彼女の後について中へ入る。診療所は消毒液とほのかな花の香り――たぶん彼女の香水だろう――がした。すべてが清潔で整然としていて、私が逃げ出してきたあの混沌とは正反対だった。
「こちらの診察台にお寝かせください」茜さんが体温計を手に取る。「お名前をお聞かせいただけますか?」
「結衣です。四歳」そっと寝かせ、濡れた髪を撫でつける。「昨日から具合が悪くて、今夜になって急にひどくなったのです」
茜さんは体温計を結衣の舌の下に入れた。「お食事や水分は摂れていますか?」
私は首を振った。「ほとんど摂れていません。ずっと眠っていて……怖い夢を見ているようで、うなされているんです」
電子音が鳴る。茜さんが顔をしかめた。「三十九度八分ですね。高熱ですが、危険な状態ではありません。おそらくウイルス性の風邪だと思われます。解熱剤を処方しておきますね」彼女は緑色の瞳で私を気遣うように見つめた。「お母さん、いつからお休みになっていないんですか?かなりお疲れのようですが」
笑い出しそうになった。眠る? 目を閉じるたびに啓介の顔が浮かぶのに。あの突き刺さる感触、驚愕に染まった彼の目。
「一晩中運転してたんです」私は答えた。「車が故障してしまって、明かりがついているのはここだけだったので」
茜さんはしばらく私をじっと見つめた。「今夜はどちらにお泊まりになるんですか?」
「まだ……決めていないんです」手持ちの現金は二千円ほど。クレジットカードは足がつくのが怖くて使えない。
「二階に空いている部屋がありますよ」彼女はすぐに言った。「狭いお部屋ですが、ベッドはあります。お二人とも休養が必要ですし、結衣ちゃんの容態も診させていただきたいので」
私は呆気にとられた。「そんな……でも、お代を……」
「お金のことなど気になさらないでください」彼女の笑顔は温かく、しかしきっぱりとしていた。「困っている方をお助けするのが私たちの務めですから。さあ、ご案内いたします」
狭い階段を上る。腕の中の結衣はぐったりしている。壁には額に入った写真が飾られていた。白衣姿の達也。昔より歳を重ね、大人びた表情。学位記の隣には、彼と茜さんの写真があった。彼の腕が彼女の肩に回され、二人は笑い合っている。
胸が締めつけられた。当然だ、彼は前に進んだのだ。啓介の金を選んで彼の愛を捨てたとき、私は自ら後戻りできないようにしたのだから。
「こちらです」茜さんがドアを開けると、ダブルベッドと通りを見下ろす窓のある居心地の良さそうな部屋があった。「お手洗いは廊下の突き当たりです。予備の毛布は押し入れにありますから」
結衣をベッドに寝かせる。枕に沈んだ顔はあまりに小さい。娘が身じろぎし、うっすらと目を開けた。
「ママ?」かすれた声。「パパはどこ? どうしてあんなに……」
「シーッ、いい子ね」髪を撫でて遮る。「パパはもういないの。今は寝ましょうね、いい?」
娘が目を閉じるのを見て、私は震える息を吐き出した。茜さんが興味深げな視線を向けている。
「離婚のお話し合いをされているとか、そういうことでしょうか」彼女は静かに尋ねた。
「まあ、そんな感じです」私は曖昧に呟く。
「後ほど様子を拝見に伺わせていただきます」茜さんは部屋を出て行った。「少しお休みになってください。お体を崩されてしまいます」
一人になり、ベッドの端に座って結衣の苦しげな寝息に耳を澄ませる。その時、砂利を踏む車の音が聞こえた。
全身の血が凍りついた。薄い壁越しに茜さんの声が響く。「どうだった? 高橋さんは大丈夫?」
「ああ」答えたのは、低く、聞き覚えのある男の声。達也が帰ってきたのだ。
床に耳を押し当て、必死で聞き耳を立てる。
「二階にお客さんよ」と茜さん。「お母さんと小さな女の子。子がひどい熱だったから、空き部屋に案内したの」
「それは親切に」彼の声を聞いた瞬間、心臓が痛んだ。
足音と話し声が遠ざかる。たぶん寝室へ向かったのだろう。
私は結衣の隣に横たわり、娘を抱き寄せた。なんという皮肉だろう。裏切った男のもとへ逃げ込み、彼はこちらの正体も知らずに匿ってくれているなんて。
結衣が寝言を漏らした。「パパ……どうしてママ、パパを痛いことしたの?」
慌てて娘の口を手で塞ぐ。パニックが押し寄せる。ただ熱でうなされているだけ、混乱しているだけだ。でも、もし彼らの前でこんなことを口走ったら? もし問い詰められたら?
もうおしまいだ。完全に詰んでいる。
