第3章

恵理視点

バルコニーのラウンジチェアに、膝を胸に抱えてうずくまる。眼下に広がる白川市のスカイラインを見つめていた。かつては魔法のように感じられた無数の灯りも、今夜はただ滲んで見えるだけだ。

愛じゃない。義務。

美也子さんの言葉が、頭の中で繰り返される。ずっと分かっていたことだ。でも、彼の母親の口からそれを聞かされると、息もできなくなる。

背後で、アパートのドアが開く音がした。

新はリビングルームに目を走らせる。誰もいない。キッチン。人影はない。心臓が速鐘を打つ。

彼女はどこだ?

彼の視線は、バルコニーで丸くなっている人影に留まった。胸が締め付けられる。彼女がこんな風に座っているのを見たのは、過去に三度だけ。中村のおじいさんが亡くなった夜、彼女の父親が黙って再婚した日、そして、今だ。

彼はハンガーからスーツのジャケットを取ると、一つ深呼吸をして、ガラスのドアを押し開けた。冷たい風が顔を打つが、彼の目には彼女しか映らない。

温かい布地が肩にかけられる。私は凍りついた。嗅ぎ慣れたコロンの香りに包まれる。新のスーツジャケットだ。

「正人から、母さんが君に会ったと聞いた」

いつもより柔らかい声だった。

私は彼の方を見ない。赤くなった目を見られたくなかった。

「早く帰ってこなくてもよかったのに」

「いや、帰ってくるべきだった」

彼はいつものように距離を置いてはいない。屈み込み、私と目線の高さを合わせる。その仕草はあまりに親密で、心臓が不規則に脈打ち始めた。

「母さんに何を言われた?」

声が硬くなる。

「本当のことよ。私たちの結婚はビジネスのためのもので、あなたは義務で私と結婚したこと。私みたいな人間は、白銀家の世界にはふさわしくないって」

笑ってみせるが、自分の耳にも苦々しく響いた。

「母さんにはそんな権利――」

「ううん、権利はあるわ。あなたの母親だもの。それに、間違ってもいない」

ようやく、私は彼を見た。

その灰青色の瞳の奥で何かが燃えている。怒り? 罪悪感? それとも、また私の考えすぎだろうか。

彼は顎を引き締め、両手を固く握りしめる。指の関節が白くなる。何かを堪えるように、彼の喉仏が動くのが見えた。

「どうして私と結婚したの、新? 本当の理由を教えて」

声が震える。

今だ。彼が彼女にすべてを打ち明けられる、最後のチャンス。

――初めて会ったあの日から、君だけが俺を本当の人間にしてくれたからだ。期待に応えるためだけにプログラムされた機械じゃなく、人間だと感じさせてくれるのは、君だけだからだ。君を、愛しているからだ。

空気が凍りつく。私はただ、彼を見つめて待った。彼は口を開きかけ――そして、閉じた。

心が、沈んでいく。

「祖父に頼まれたからだ。君の祖父が、祖父の親友だった。それが、正しいことだと思ったからだ」

彼の声は硬かった。

胸を撃ち抜かれたような痛みが走った。

違う。その答えは間違ってる。心の奥では分かっていたはずなのに。私が彼の義務のチェックリストに載ったただの項目の一つだったと、こうしてはっきり言葉にされると、私の中の何かが粉々に砕け散った。

立ち上がる。急すぎたせいで、少しめまいがした。肩から彼のジャケットを外し、彼に返す。手が震えていた。

「正直に話してくれて、ありがとう」

無理に、笑みを作る。

「違う……そういう意味じゃ……」

「いいの。最初から分かってたことだから。ただ……時々、忘れちゃうのよね」

「もし……俺と離婚する必要がなかったとしたら?」

再び、空気が凍る。私は呆然と彼を見つめた。

「え?」

「契約では三年だ。だが、三年で終わりにしなければならないとは書かれていない。もし……俺たちが、これを延長したら?」

彼は一歩、私に近づく。

契約の、延長。

『そばにいてほしい』じゃない。

『君が欲しい』でもない。

契約を、延長する。

爪が手のひらに深く食い込む。その痛みが私を覚醒させ、ここで泣き崩れるのを防いでくれた。

「契約の、延長」

私の声は、空虚に響いた。

「ああ。君が望むなら。プレッシャーはない。ただ……俺たちはうまくやっている。ルームメイトとして。パートナーとして」

ルームメイト。パートナー。夫と妻ではなく。愛し合う者同士でもなく。

「考えておくわ」

私はガラスのドアの方へ向き直った。

「恵理――」

「おやすみなさい、新」

振り返らなかった。

ガラスのドアを押し開け、暗いリビングルームを横切る。寝室のドアを閉める前にもう一度だけ振り返ると、彼はバルコニーに立ち尽くしていた。そのシルエットが、街の灯りを背に寂しげに見えた。

ドアを閉め、そのまま床にずるずると座り込む。

新はデスクに座り、書類を見つめていたが、一言も頭に入ってこない。昨夜はほとんど眠れなかった。廊下で足音が聞こえるたび、恵理が部屋から出てくるのではないかと期待してしまった。

だが、彼女は決して出てこなかった。

正人がノックをしてドアを開ける。

「社長、本日の資料です」

新は書類を受け取り、うつろに目を落とす。正人はデスクの向かいに立ったまま、明らかに何か言いたげな様子だ。

沈黙が数秒続く。

「昨夜のお話は、いかがでしたか?」

新は両手で髪をかきむしった。

「契約の延長を頼んだ」

正人は目を瞬かせた。

「申し訳ありません、何と仰いましたか?」

「パニックになったんだ。彼女に、ここにいてほしいと伝えようとしたんだが、全部間違った形で出てきてしまった」

「失礼を承知で申し上げますが……あなたは本当に愚かです」

新はショックを受けて顔を上げた。

「正人――」

「あなた様は、愛している奥様に対して、ビジネス上の取り決めの延長を申し出たのです。ここに問題があるとお分かりになりませんか?」

「彼女を引き留めようとしたんだ!」

新の声には、怒りと無力感が混じっていた。

「彼女を惨めにさせているものを、さらに差し出すことでですか? 旦那様、奥様が望んでいるのは契約の延長ではありません。あなた自身です」

正人の目は、信じられないというように見開かれていた。

「そんなことは分からないだろう」

新の声が低くなる。

「私は六年間、あなた様のもとで働いてきました。あなたがご覧になっていない時、奥様がどのような目つきであなた様を見つめているか存じております。あなた様が彼女を見つめるのと同じように。まるで、あなたの世界で唯一の、本物の存在であるかのように」

正人の口調は慎重だが、断固としていた。

「来週は、退役軍人児童財団のガラパーティーです。お母様も、そして奥様もいらっしゃいます」

彼は一拍置いた。

「そして、井上様も」

「井上? 井上由紀か? なぜだ?」

新は顔を上げた。

「彼女の組織が、今年のチャリティーパートナーなのです。ご存じかと思いましたが」

新はため息をつく。厄介事の波が押し寄せてくるのを感じた。

「旦那様、これは奥様に、あなた様の本当の気持ちをお見せするチャンスです。公の場で、はっきりと。ですが、もしそうされるのであれば、勇気が必要になります」

正人は言葉を切る。

「もう契約は必要ありません。安全な距離も。ただ、真実だけです」

新は窓の外、白川市のスカイラインに目を向けた。

「もし、彼女が俺を愛していなかったら?」

「少なくとも、それで分かるではありませんか。ですが、それこそが、あなた様が心配すべき結果ではないと私は思います」

正人の声は、穏やかだが揺るぎなかった。

新は窓の外を見つめ続ける。ガラスには彼の姿が映り込んでいる。正人は静かにオフィスを退室した。

新は携帯電話を手に取り、隠されたアルバムを開く。三年間分の、恵理の写真。彼女に気づかれずに撮ったもの、彼女が間違って送ってきたもの、彼女が彼の人生に実在するという証拠のすべて。

彼は最新の写真までスライドさせる。昨日、彼女が誤って送ってきたアフロディーテの彫刻の写真だ。

長い沈黙の後、彼はスクリーンをロックし、椅子に深く腰掛けた。窓から差し込む陽光が彼の顔を照らすが、その表情は影に隠れて見えなかった。

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