第1章
夜会の喧騒の中、広昭は私の腰に手を回し、取引先とドイツ語で談笑していた。
私はそっと下腹部に手を添え、これから打ち明ける甘やかな秘密に胸を躍らせていた。結婚五年目にして、私たちにようやく子供が授かったのだ。
彼らの話が一段落したら、この吉報を伝えよう。
ビジネスの話題が尽きると、佐藤は不意に話題を変え、広昭の義妹であるナナミの名を出した。
「……ナナミはまさに夜の女神だ。あの舌使いときたら、俺のすべてを飲み込んでしまいそうだったよ」
広昭は得心がいったように笑みを浮かべた。
「あいつはベッドの上では底なしだからな。昨夜は少々羽目を外しすぎた——手錠の痕が手首に残るほどだったが、それでもまだ欲しがっていたよ。俺もつい理性を失ってね、今朝のあいつはベッドから起き上がるのもやっとだった。そうでなければ、今夜のパーティーにも顔を出していただろうが」
ドクリ、と心臓が凍りついた。
彼らは知らないのだ。私がベルリン在住の叔母から、幼い頃よりドイツ語を叩き込まれていたことを。
交わされる言葉の一つひとつが、恐ろしいほど鮮明に耳に突き刺さってくる。
今朝、ナナミの部屋のドアをノックし、一緒に行かないかと誘った時のことを思い出す。彼女は気怠げな声で言った。
『ううん、今日は気分が優れないの』
私は心配して医者を呼ぼうかとさえ尋ねたのだ。
彼女は大袈裟に笑い、甘ったるい声で私にこう言った。
『夏希お姉様は優しいのね。でもお構いなく。お兄様と行ってらして』
「奥様が隣にいらっしゃるのに、聞かれても平気なのですか」
佐藤が私に会釈しながら微笑む。
私は顔を上げ、強張る頬を無理やり持ち上げて微笑み返し、会釈した。
「何を話していらっしゃるの? とても楽しそうね」
「ああ、佐藤さんがミュンヘンのオペラ座について教えてくれていたんだ」
広昭は私を見下ろし、慈愛に満ちた声で嘘を吐く。
「それから、現地の文化や風習についてもね」
「愛しい君、立ちっぱなしで疲れただろう? こういうビジネスの話は退屈だから、向こうで座って休んでおいで」
彼は貴婦人たちが集まる方向を指差した。
「僕に付き合って無理をすることはないよ」
私は平静を装い、笑顔を貼り付けたまま婦人たちの輪へと歩き出した。
背を向けた瞬間、佐藤がドイツ語で続けるのが聞こえた。
「なるほど、奥様はドイツ語がおわかりにならないと」
「夏希さん!」
議員夫人が熱烈に私を招き入れた。
「本当に幸せ者ね。広昭さんがあなたを見る目といったら、まるで宝物を扱うみたいだわ」
「ええ、本当に」
銀行家の夫人も羨望の眼差しを向ける。
「結婚五年目でもあんなに仲睦まじいなんて。彼はあなたにこれ以上ないほど尽くしているものね」
私は機械仕掛けの人形のように微笑んでいた。
脳裏には、毎朝ナナミが広昭の頬に残す赤いキスマークや、露出度の高いネグリジェ姿で家を徘徊する姿がフラッシュバックする。そう、あの三人での夕食の時もそうだ。私がステーキを切っている最中、ふくらはぎに何かが触れた感触——。
驚いて顔を上げると、広昭はスマホに集中しており、ナナミは私に無邪気な笑顔を向けていた。あの時は、彼女が不注意でぶつかったのだと思っていたけれど……。
兄妹の仲が良いことを羨ましく思っていた私が馬鹿だった。あれはすべて、情欲の痕跡だったのだ。
「失礼、少し風に当たってきます」
私はテラスへと逃げ出し、震える指で川原教授の番号をダイヤルした。
「夏希くん?」
驚きを隠せない教授の声。
「教授、あのアマゾン熱帯雨林国際生態研究プロジェクトの件ですが……お引き受けします」
「本当かね?」
老教授の声が喜びに弾んだ。
「素晴らしい! 君の才能を名家の温室で腐らせておくのは惜しいと思っていたんだ。だが夏希くん、わかっているね? 一度密林の奥地にある観測所に入れば、電波も届かず、環境は極めて過酷だぞ……」
「一つだけ条件があります」
私は彼の言葉を遮り、決然と言い放った。
「私のファイルを最高機密に指定してください。誰にも——特に夫には、絶対に居場所を知られたくないのです」
電話の向こうで数秒の沈黙が流れた。
「夏希くん、機密化するということは、君が完全に〝消える〟ことを意味する。広昭くんも二度と君に連絡を取れなくなるんだぞ……一体何があった?」
「浮気されたんです」
私はスマホを握りしめた。
「相手は彼の義妹。もう、離婚を決意しました」
「何だと!?」
教授の声が怒りで裏返る。
「あの下衆め! 君のご両親は彼を救うために命を落としたというのに、よくもそのような裏切りを!」
両親のことを想うと、胸が引き裂かれるように痛んだ。
そうなのだ。数年前、私の両親は海難事故で彼を救う代わりに命を落とした。
教授は力強く言った。
「五日だ。五日くれ。そうすれば、君を完全に消してやれる!」
「ありがとうございます、教授」
そう言った瞬間、背後から伸びてきた手が、私の手からふわりとスマホを抜き取った。
全身に電流が走ったような衝撃を受け、私はゆっくりと振り返る。
そこには広昭が立っていた。月光が彼の完璧な輪郭を縁取っている。
彼はスマホを自分の耳に当て、もう片方の手で、風に乱れた私の髪を優しく梳いた。
その口元にはいつもの溺愛するような笑みが浮かんでいたが、瞳の奥は底知れず暗い。まるで凪いだ海面の下に潜む、激しい暗流のように。
「誰が、離婚するって?」
