第2章
私は必死に動揺を抑え込み、努めて自然な笑みを浮かべた。
「大学の教授の話よ。彼が不倫をして、奥さんにバレて離婚を突きつけられているの。教授と私で、彼女がいかにして正当な財産分与を勝ち取るか、アドバイスしているところだったわ」
広昭の深い瞳が私の顔をじっと見つめる。まるで私の魂の奥底まで見透かそうとするかのように。
この瞬間、時が凍りついた。
自分の心臓が早鐘を打つ音だけが、耳に響く。
すると、彼はふっと破顔した。あの見慣れた、人を惹きつけてやまない魅力的な笑顔だ。彼は身を乗り出し、温かい唇を私の額に押し当てた。
「その男は、とんだ大馬鹿野郎だな」
彼のキスがゆっくりと下がり、私の唇の端で止まる。
「妻をどうやって繋ぎ止めておくべきか、何も分かっちゃいない」
私は彼を見上げ、胸の内に湧き上がる皮肉めいた衝動を口にした。
「じゃあ、もしあなたなら……どうやって私を繋ぎ止めるの?」
広昭の腕が私の腰に回り、ぐっと体を引き寄せられる。耳元に彼の熱い吐息がかかった。
「俺は君を裏切らないよ、夏希。永遠に愛してる」
永遠に愛してる?
……笑わせるわ。
私は穏やかな微笑みを崩さずに言った。
「好奇心を刺激されちゃったわ。答えを知りたいの――もしも、あくまで仮定の話として、あなたが私を裏切ったとしたら、どうするつもり?」
彼は少しの間沈黙し、瞳の色をすっと深くした。
「もし俺が君を裏切ったら……俺にはもう、君を留めておく資格なんてない。二度と君の前に現れないことで、自分自身を罰するよ」
なんて甘く、美しい愛の言葉だろう。あのドイツ語の会話さえ聞いていなければ、本当に感動して涙を流していたかもしれない。
「その教授も、あなたみたいに考えてくれていればいいのに」
私はあえて声を潜めて言った。
「そうすれば、奥さんもすぐに離婚できるもの」
「そんな野暮な話はもうやめよう」
広昭がパチンと指を鳴らす。
瞬間、宴会場の照明が一斉に落ちた。
暗闇の中に、ゲストたちの驚く声が波紋のように広がる。
次の瞬間、テラスの上空に絢爛たる花火が咲き誇った。夜空に描かれた金色の火花が、『Happy Birthday 夏希』の文字を鮮やかに浮かび上がらせる。
バイオリンの優雅な旋律が流れ出し、給仕たちがシャンパンとバースデーケーキを持って次々と現れた。再びクリスタルのシャンデリアが輝き、夢幻的な光を降り注ぐ。
「誕生日おめでとう、愛しい君」
広昭が耳元で低く囁く。
私は呆然と立ち尽くした。
今日は私の誕生日だった。私自身さえ忘れていたのに、彼は覚えていたのだ。
私のためにこんなロマンチックなサプライズを用意しておきながら、裏では平然とナナミとベッドで絡み合っている。私の額にキスをする時の優しさと、ナナミのテクニックを語る時の陶酔が、恐ろしいほど自然に同居しているのだ。
この男の心身は、まるで引き裂かれているかのようだ――半分は深く愛する夫を演じ、もう半分は薄汚い欲望に溺れている。
ゲストたちが次々とグラスを掲げて祝辞を述べ、称賛の声が鳴り止まない。
誰の目から見ても、私は世界で一番幸せな女だったろう。こんなにもロマンチックで、思いやりのある夫を持ったのだから。
その幸せの絶頂で、広昭の携帯が鳴った。
彼は画面を一瞥し、眉一つ動かさずに言った。
「ナナミからだ」
私の心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
「何かあったのかもしれない」
彼は申し訳なさそうに私を見て、少し離れた場所で電話に出た。
その背中を見つめる私の指先が、無意識のうちに強く握りしめられる。
数分後、戻ってきた彼の顔には、微かな憂いの色が浮かんでいた。
「ナナミが病気らしい」
彼は言った。
「かなり様態が悪いようだ。俺が病院へ連れて行かなきゃならないかもしれない」
以前の私なら、疑いもせずに信じただろう。何しろ彼は、義妹を大切にする完璧な兄なのだから。
「ナナミちゃんが病気だなんて」
私は健気な妻を演じて言った。
「なら、私も一緒に行くわ。私にとっても妹だもの」
彼の方の表情が一瞬、凍りついた。だが、すぐにいつもの顔に戻る。
「いや、いいんだよ、愛しい人。今日は君の誕生日じゃないか。それに、二人してここを抜け出すわけにはいかない。ゲストもまだ大勢いるし、この家の主として失礼にあたるからね」
そこでようやく、今夜のこの盛大な宴が私のために催されたものだったと思い出した。
「あなたの言う通りね」
私は従順に頷いた。
「行ってあげて。道中、気をつけてね」
彼は明らかに安堵の息を漏らし、私の頬にキスを落とした。
「できるだけ早く戻るよ」
私は笑顔のまま彼を見送り、その背中がエレベーターの中に消えるのを見届けた。
だが、私が向かったのは化粧室ではない。足早に宴会場の反対側へ回り、親しくしている婦人、美由紀の元へ向かった。
「車を貸してくださらない?」
私は声を潜めて頼んだ。
彼女は驚いたように私を見たが、それでも車のキーを渡してくれた。
「ええ、もちろんよ」
駐車場のVIPエリアへ急ぎ、彼女の愛車であるシルバーのポルシェを見つけ出す。
エンジンを始動させた時、ちょうど広昭のベントレーがゆっくりとゲートを出ていくのが見えた。
私は一定の距離を保ちながら、静かにその後を追った。
