第1章
私は臨月で、湯船に浸かってぼんやりしていた。そのとき、匿名のメールがふいに届いた。
最初の添付ファイルは、夫の検査報告書だった。
【重度の無精子症。完全不妊】
私はせり出した腹にそっと触れた。もし拓実が不妊なら――この子はいったい誰の子なの?
二つ目の添付はニュース記事。【億万長者の妊娠中の妻、主寝室の浴室で溺死】
掲載日は明日の朝になっている。悪趣味な冗談だと思った。
その直後、浴室のドアが開いた。夫が立っていた。ネクタイを緩めながら。
「今夜はきれいだな」彼は低く囁いた。
――
「拓実、お願い……気分が悪いの」私は喉を詰まらせ、反射的に湯の中を後ずさった。
「陣痛が……今日は赤ちゃんが落ち着かなくて……」
彼の愛想のいい笑みが消えた。
「いつも聖女気取りだ。いつも、くだらねえ言い訳ばっかり」吐き捨てるように言う。
彼は仕立てのいいスーツの上着すら脱がなかった。溢れかけた浴槽に、そのまま足を踏み入れる。どぶん、と水が大きく跳ね、縁から勢いよくこぼれ落ちた。
叫ぶ間もなく、大きな手が私の喉を締め上げた。
「俺がどれだけ我慢してきたと思ってる!?」怒鳴り声が浴室に響く。彼は私を陶器に叩きつけるように押しつけ、唾が頬に飛んだ。
「完璧な妻を演じながら、他の男の子どもを腹に抱えてやがって!」
「何を言ってるの……痛い! やめて、放して!」私は暴れた。濡れた手で必死に彼の手首を掻きむしる。
これが拓実なの? 毎朝、私の額にキスをしてくれた人。どうして、私を引き裂きたいみたいな目で見ているの――。
「俺に身を委ねないなら、お前はその小さな雑種と一緒に死ね」
目が死んでいた。空っぽで、何も映していない。彼は私の頭を乱暴に水面の下へ押し込んだ。
口を開いた瞬間、湯が雪崩れ込んできて鼻腔が灼けるように痛む。肺が酸素を求めて悲鳴を上げた。臨月の重い腹が私を底へ引きずり込む。引っ掻き、蹴り、持てる本能すべてで抗うのに、彼の体重はびくともしない。
浴室の薄明かりがぐにゃりと歪み、眩暈のする白い滲みに変わった。恐怖で脳が空回りして――そして、息もできない絶対の闇が落ちてくる。
私は水面から跳ね起き、激しく咳き込みながら息を吐いた。
喉を押さえる。腫れた感触、潰れた軟骨、そんなものがあるはずだと思った。けれど痣もない。痛みもない。周りの湯は、嘘みたいに静まり返っていた。
心臓が肋骨を内側から殴りつけるほど激しく脈打ち、痛いくらいだった。私は湿った頬に手を当てた。
悪夢だったの? でも、親指が気管を押し潰す感覚は、あまりに生々しすぎた。
私は浴槽の縁へ体を投げ出すように寄りかかった。タオルの横には、十分ほど前に拓実が渡してきた赤ワインのクリスタルグラスが置かれている。
一口しか飲んでいない。だがよく見ると、血のように赤い液体の底に、溶けきらない白い粉が薄い輪になって沈んでいた。
私はグラスを見つめ、濡れた指を曲げ伸ばしした。関節の奥に、鈍く硬い感覚がじわじわと広がっていく。妊娠の疲れなんかじゃない。薬を盛られたのだ。
化粧台の上でタブレットの画面が点いた。受信箱に、たった今――あの匿名メールが届いたところだった。
肺から息が抜けた。
時計が……巻き戻っている?
重いガラスのドアが、きい、と音を立てて開いた。
彼が、またそこに立っていた。緩めたネクタイ。獲物を狙うような立ち姿。
「今夜は息をのむほどきれいだな、雪乃」
薬が筋肉を完全に麻痺させるまで、あと数秒しかないと分かっていた。力で彼に勝てるはずがない。取り乱したら終わりだ。
私は震える口元を必死に持ち上げ、従順で大人しい妻を演じた。
「今夜はだめ、あなた。赤ちゃんがすごく蹴ってきて、もう全然気力がないの。別の日にしてくれる?」
従えば時間を稼げると思った。致命的に、甘かった。
「俺を舐めてんのか、雪乃!?」彼はネクタイを乱暴に引きちぎるように外し、湯を蹴散らして突っ込んできた。私へと躍りかかりながら、「俺で遊ぶのがそんなに楽しいか!?」
後頭部を掴まれ、顔を水面へ押しつけられる。
今度は顔を引っ掻くような無駄な抵抗はしない。押し沈められながら、私は濡れて肌に張りつくシャツの裾へ両手を滑り込ませ、腹の上にかかる重みを外すための支点にしようと腰を掴んだ。
指先が、右腰の下――背中の下部に触れた。
私は凍りついた。
濡れた布の下で、爪がざらついた肉の盛り上がりに引っかかったのだ。荒く、分厚く、でこぼこに歪んだ感触。
煙草の火傷痕。しかも、ひとつふたつじゃない。群れをなすように固まっている。
水の中で、私の目は見開かれた。頭の中で噛み合わない音が、耳をつんざくほど大きい。
神崎拓実は潔癖症の塊だった。自分の身体を、傷ひとつない神殿みたいに扱う男。肌に汚れも痣も、たった一つだってないはずだった。
神崎家に、その下品で暴力的な傷――地下の喧嘩場で刻まれた痕を背負う男は、ひとりしかいない。
双子の弟。彰人。
堕ちた厄介者。家族の食卓でいつも私の向かいに座り、胸元を生々しい執着で舐めるように見つめてくる男。
喉の奥から胆汁がこみ上げ、湯と混ざって口の中が苦くなる。彰人が兄のスーツを着て浴室に押し入り、私を溺れさせに来ているのだとしたら……本物の拓実はいったいどこにいる? それとも、夫が私の殺害を仕組んだの?
酸素が尽きかけ、意識が遠のく。闇が二度目に私を攫っていった。
私は跳ね起き、背骨を硬い陶器にしたたか打ちつけた。
裸でびしょ濡れだなんて、もうどうでもよかった。私は浴槽の縁を乗り越えるように身を投げた。重い腹のせいでバランスはめちゃくちゃだったが、濡れたタイルに膝をつき、よろめきながら立ち上がり、曇りガラスの重い扉へ全体重をぶつけた。
閂を叩き落とすようにかける。
警告のメールが届いてから間もなく、外側からドアノブが乱暴に捻られた。
「ダーリン、開けろ! なんで鍵がかかってる!?」怒鳴り声。声音は滑らかで――ぞっとするほど完璧に夫を真似ていた。
私は後ずさりし、濡れた裸の肩が冷たい鏡に押し当たるところで止まった。震えが全身を荒らしていく。扉の向こうにいるのは、この子の父親じゃない。夫の顔を被った化け物だ。
私は大きく、乱れた息を吸い込み、施錠された扉に向かって叫んだ。
「近寄らないで、彰人!」
叩く音が、ぴたりと止んだ。
ドアノブの軋む動きも止まり、廊下に死んだような、痛いほどの沈黙が落ちた。
次の瞬間、扉への襲撃が狂乱へ変わった。
何か重くて金属のものが、甲高い速度でガラスを打ち据え始める。狂ったリズムで、何度も、何度も。
ついに厚いガラス板が耐えきれず、砕けた。
拳ほどのギザギザの穴。その向こうから、血走った片目が私をまっすぐ射抜いた。
「どうして分かった?」本当の、しゃがれた声が囁く。
