第3章
翌日、耀のもとに銀座のドレスショップから電話が入った。
店員は恐縮しきった声で、彼が私のために特注したあのウェディングドレスが、返品されたことを告げた。
一ヶ月前、二人で銀座を通りかかったときのことだ。ショーウィンドウに飾られた純白のドレスに目を奪われ、私は長いことその場から動けなくなってしまった。
数日後、耀はそのドレスを抱えて私の前に現れた。
いつも余裕綽々な彼が、その日はパリッとしたスーツに身を包んでいた。片膝をついて跪いたとき、その指の関節が緊張で白く浮き上がっていたのを覚えている。
「紗良、俺と結婚してくれ」
私は口元を押さえ、目を赤くして必死に頷いた。その夜、私はいつも以上に彼に甘えた。天井で揺れる照明の影を見つめながら、「家族」という名の居場所をようやく掴み取れたのだと、そう信じていた。
私は孤児だった。
一度は養父母に引き取られたものの、実の息子が生まれた途端、「虚言癖がある」というレッテルを貼られ、ゴミのように施設へ送り返された。
本当は、あまりの空腹に耐えかねて、弟が残した唐揚げを二つ、こっそり食べただけだったのに。
高校の文化祭でも、施設育ちの私と組んでくれる人などおらず、教室の隅で小さくなっていた。そんなとき、蔑むような視線を遮るようにして歩み寄ってきたのが耀だった。彼は笑って手を差し伸べてくれた。
「俺たちの班に来いよ」
その瞬間、彼は私の心の奥底に住み着いたのだ。
三城香澄が戻ってくるまでは。
スキャンダルにまみれた彼女にとって、耀は唯一の頼みの綱だった。彼女を支えるためだと言って、あろうことか耀は、私たちのマンションに彼女を連れ込もうとした。
激しい口論の末、私は大阪への出張を志願した。頭を冷やすための一週間を経て、私は未来そのものだったあのドレスをキャンセルした。
――彼と別れよう。
それが、今日耀があの電話を受けた理由だ。
電話を切った耀の顔色は、滴り落ちそうなほど陰鬱だった。
彼は発狂したかのようにLINEを送り続け、何度も私の番号をコールしたが、返ってくるのは無機質な電子音だけ。
灰皿には吸い殻の山が築かれ、最後の一本が燃え尽きると、彼は伏し目がちに呟いた。その声は、触れれば壊れてしまいそうなほど脆かった。
「紗良、本当に行ってしまうのか?」
そうよ。
私はもう去ったの。徹底的に、永遠に。
これでようやく、あなたは心置きなく香澄と一緒になれるわね。
私は宙に浮きながら、冷めた目で彼を見下ろしていた。
だが不意に、奇妙な違和感が胸をかすめる――ドレスを返し、別れを決意したはずなのに、どうして私は彼の誕生日を祝おうと急いで戻ってきたのだろう?
懸命に思い出そうとするが、頭が割れるように痛むだけだ。まるで、何か致命的に重要なことだけが抜け落ちているかのように。
それからの日々、耀は頻繁に心ここにあらずといった様子を見せるようになった。
ある日の夕暮れ、香澄がキッチンに立っていたときのことだ。帰宅した耀は、靴を脱ぎながら何気なく口にした。
「紗良、今夜の飯はなんだ?」
瞬間、空気が凍りついた。
香澄の背中が強張り、耀もまたハッとして立ち尽くす。彼は低く「悪い」とだけ漏らすと、虚空を見つめて呆け始めた。香澄がどれほど険しい顔をしているかなど、目に入っていないようだった。
翌日、香澄は寝室の「整理」を始めた。私の私物を袋に放り込み、耀と私が一ヶ月かけて組み上げたレゴの城を、「うっかり」崩したのだ。
それを見た耀は、珍しく感情を露わにした。
「……触るな」
彼は香澄を押しのけ、その場に屈み込むと、散らばったブロックを一つ一つ、黙々と拾い集め始めた。
彼が直している間、香澄はずっと無言でその背中を見つめていた。
枕元に残された私のぬいぐるみを眺めては物思いに耽り、水槽の金魚を目にしては動きを止め、洗面所に並ぶペアの歯ブラシを見てさえ、彼は立ち尽くすようになった。
香澄だけでなく、「傍観者」である私にも痛いほど伝わってくる。
成瀬耀は、今さらながら自分の本当の気持ちに気づき始めているのだと。
ある晩、泥酔した耀は親友の田中に電話をかけた。
田中は単刀直入に問いかけた。
「お前な、結局紗良ちゃんと香澄ちゃん、どっちがいいんだよ」
耀は長い沈黙の後、掠れた声で答えた。
「紗良には……もう振られた」
田中が溜息交じりに言う。
「人の心ってのは狭いもんだ。一人しか入れねえよ。紗良ちゃんを迎えに行け」
耀は俯き、スマートフォンの画面を親指で何度も摩った。やがて、絞り出すように短く応じた。
「ああ」
私はその光景を静かに見下ろしていた。
もし以前の私なら、その言葉を聞いて嬉し涙を流していただろう。
でも今は違う。私は死んだの。
もう死んでしまったのよ、成瀬耀。
蟻の群れが心臓に潜り込んでくるような、ざらついた焦燥感が胸を侵食していく。名状しがたい感情が頭の中で渦巻き、呼吸などしていないはずなのに、私は激しい窒息感を覚えた。
私が死んでから、ようやく私を愛し始めるなんて。
