第4章
耀は、すでに腹を括っていたはずだった。
出張先へ向かう航空券の予約確認メールは、静かに彼の受信ボックスに収まっている。田中にも根回しを済ませ、今夜のうちに香澄をあの辺鄙な田舎の実家へ送り返すつもりでいたのだ。
しかし、マンションの電子錠が解除され、彼を迎えたのは冷ややかな空気ではなかった。部屋いっぱいに漂う、芳醇な鰹だしの香り。
香澄が、打ちたてのうどんを慎重にテーブルへと運んでいるところだった。
「ごめんなさい、耀」
耀が口を開くより先に、香澄は潤んだ瞳で先手を打った。いつものような甘えた態度ではない。うつむき、その声はまるで暴雨に打たれた小動物のように震えている。
「あの日は取り乱してしまったの。貴方を追い詰めるつもりなんてなかった。ただ……また貴方を失うのが、怖くて」
彼女が顔を上げると、涙が頬を伝い、私のエプロンに落ちて濃い染みを作った。
「実家の莫大な借金を返すために、私は青春を売り渡して、あの人の囲いものになるしかなかった……。あの金色の鳥籠の中で、私は毎日貴方のことを想って、思い出だけを頼りに生きていたの」
彼女はゆっくりと耀の前に歩み寄ると、その袖口を指先で頼りなげに掴んだ。塵芥のように卑屈な姿で。
「貴方が今愛しているのは紗良さんだって、わかってる。二人の仲を壊すつもりなんてないの、本当よ。お願い、せめて紗良さんが戻ってくるまで、ここにいさせてくれない? 彼女の怒りが収まったら、私はすぐに消えるわ。二度と二人の前には現れないから」
耀の強張っていた身体が、彼女の悲痛な泣き声に触れ、次第に力を失っていく。
長い沈黙の後、彼はついにその手を振り払うことができなかった。
「泣くなよ」
彼はため息をつき、指の腹で彼女の目尻を優しく拭った。
「体調もまだ戻ってないんだろ。まずは食事にしよう」
その瞬間、宙に漂う私の心臓があったはずの場所を、幻の、しかし激しい激痛が襲った。
この五年間、私は疲れを知らない馬鹿みたいにこの家を温もりで満たし、ようやく彼の心に居場所を作ったというのに。
香澄はたった一杯のうどんと数滴の涙で、彼の原則をいとも容易く粉砕してしまったのだ。
数日後、会社の喫煙室。
燃え尽きた灰を見つめる田中の眉間には、深い皺が刻まれていた。
「お前、本気でこのままやり過ごす気か? もし紗良ちゃんが予定より早く帰ってきて、今の状況を見たらどう思う?」
「俺と香澄は、やましいことなんて何もない」
耀は窓の外に広がる東京の繁華街を見下ろし、冷徹なほど平坦な口調で言った。
「紗良が戻る頃には、香澄はもういない。この件は何もなかったことになる。紗良は永遠に知ることはないさ」
「永遠に、か……」
田中は言い淀み、最後には吸い殻を押し潰して重い溜息をついた。
私は耀の背後に浮かび、この自己欺瞞に満ちた男を冷ややかに見下ろしていた。
霊体の中に、ある種の歪んだ快感が広がっていく。
『もうすぐよ、耀。「永遠に真実を知ることのない」人間がすでに死体へ変わり果てていると知った時、貴方は一体どんな顔を見せるのかしら?』
ここ数日、耀は確かに一線を守り、まるで職務に忠実な介護人のように香澄の世話を焼いていた。意識的に身体的接触を避けている節さえある。
一方の私は、混沌とした記憶の渦の中で答えを探し続けていた。
なぜ私は、あの台風の夜に無理をしてまで帰ってきたのか?
直感が告げている。それこそが、私が「残響」としてここに囚われている理由なのだと。この謎さえ解ければ、この吐き気を催すような茶番劇から解放されるはずだ。
だが、その記憶に触れようとするたび、脳が引き裂かれるような激痛が走る。
転機は、ある日の午後に訪れた。
香澄が体調不良を訴え、耀が付き添って産婦人科へ向かったのだ。単なる胃腸の不調だと思っていたそれは、診察室で青天の霹靂へと変わった——彼女は、妊娠していた。
あのパトロンが残した、忌まわしい置き土産だ。
エコー画面に映る小さな黒い影を見て、香澄は顔面蒼白になり、小刻みに震えだした。
「どうしよう……もし生まれてくるのが女の子だったら、あの子も私みたいに不幸な運命を辿るんじゃ……」
耀は傍らに立ち、モニターを見つめながら、その表情を異常なほど穏やかなものへと変えた。
「そんなことはない」
彼は静かに諭すように言った。
「女の子はいいものだ。紗良も女の子が好きでね、ずっと娘を欲しがっていたんだ」
「娘」
その単語は一筋の雷光となって、私の脳内の霧を瞬時に切り裂いた。
激痛が襲う。私は悲鳴を上げ、病院の無機質で白い廊下に崩れ落ちた。激しい感情の波に呼応して、霊体が明滅する。
すべての記憶の断片が、その瞬間、あるべき場所へと収まった。
私は震えながら、透き通った掌を自分の平らな下腹部に重ねた。
思い出した。
私が台風の危険を顧みず、夜通し車を走らせて彼の誕生日に駆けつけようとした理由。
この崩れかけた関係に、最後にもう一度だけチャンスを与えようとした理由。
それは——私も、妊娠していたからだ。
記憶が、事故のあったあの日へと巻き戻される。
妊娠届を手にした瞬間、私は病院のベンチで一時間もの間、動けずにいた。
これはきっと、神様が私たちにくれた贈り物なのだと思った。
プロポーズされた夜、耳元にかかった耀の温かい吐息が、まるで昨日のことのように蘇る。
『紗良、結婚したら子供を作ろう。孤児だった君は、誰よりも家族の絆を求めているはずだから』
私はその薄っぺらな検査結果の用紙を抱きしめ、帰りのタクシーに乗り込んだ。
彼に会ったらどう伝えようか、脳内で何度もシミュレーションを重ねた。この驚きを誕生日プレゼントにしたかった。あのいつもすました顔が、だらしなく破顔するのを見たかったのだ。
車窓を叩く激しい雨音に紛らわせるように、私は緊張をほぐそうとスマホを取り出し、SNSを開いた。
そして、「初恋の人を探しています」というトレンドワードを目にした。
何かに導かれるように、私は香澄のTwitterのページを開いてしまった。
そこはまるで、成瀬耀に関する実況中継のようだった。
添付された写真は、海老の殻を剥くために俯いた耀の横顔。私が知らないほど、優しげな表情。
「昨日の夜、疲れ果てて眠るあなたに密かにキスをしたわ。おやすみ、私の騎士様」
そのツイートには、たった一つ、しかしあまりに目立つ「いいね」がついていた。アカウント名は「Y.N」。
瞬間、全身の血液が抜き取られたような感覚に陥った。
私は滑稽な道化だった。独りよがりのサプライズを胸に抱き、とっくに腐敗していた詐欺劇へとひた走っていたのだ。
もう見たくない。本当に、もう見たくない。
直後、耳をつんざくブレーキ音、制御を失った赤いトラック、天と地がひっくり返るような浮遊感……。
最後に見えたのは爆発の火光。そして、粉々に砕け散るような激痛。
私は本来、新しい命への憧れを抱いて彼の元へ向かうはずだった。
けれど最期は、満腔の絶望と怨嗟を抱いて死んだのだ。
私の魂を彼のそばに縛り付けていたのは、未練がましい愛などではなかった。
恨みだ。
骨の髄まで凍てつくような、恨み。
私とお腹の子が崖下で業火に焼かれていたその時、私の婚約者は、別の女を優しく寝かしつけていたのだから。
病院の廊下。医師と話していた耀が、不意に身震いをした。
彼は弾かれたように振り返り、疑心暗鬼の眼差しで周囲を見回した。骨に染みるような寒気を感じたようだが、そこには誰もいない。
その時、ポケットの中の携帯電話が振動した。
通話ボタンを押した瞬間、田中の上ずった声が受話器から漏れ聞こえ、死寂を破った。
「耀……まずは深呼吸して、聞いてくれ」
「交通捜査課にいるツレから連絡があった。数日前の海沿いの国道での特大事故、遺体の身元確認がたった今、すべて完了したそうだ」
「あのタクシーに乗っていた乗客は……妊婦だった」
「紗良ちゃんだったんだよ」
