第2章 そろそろ子どもの準備もしなきゃ
綾部グループはここ数年、幾度となく経済危機に見舞われてきた。それでも、そのたびに姉と父の手腕で、崖っぷちから引き戻してきた。
綾部栞も今回も、これまでと同じ程度だと思い込んでいた。
だが、違った。
想像以上に深刻だった。
父は追い詰められ、薬を飲んで自ら命を絶とうとしたのだ。
「お姉ちゃん、わたし……」
綾部玉季は重たく栞を見下ろし、声を落とす。その語調は威厳に満ち、刃のように鋭い。
「手段は問わない。伊沢赤司に綾部家を助けさせて」
「忘れたの? お父さんがあなたを伊沢赤司に嫁がせるために、どれだけ動いたか。今が返す時よ」
「離婚するにしたっていい。でも、伊沢赤司から皮一枚剥いででも、綾部グループを生かしなさい」
命令だった。拒む余地など、一欠片もない。
栞の胸の奥が、じわりと苦くなる。
――あの頃。
伊沢赤司の両親は交通事故で亡くなり、会社は株主たちの反発を受け、外からの締め付けで伊沢グループは今にも崩れそうだった。栞は赤司を密かに想っていたからこそ、父に「助けてほしい」と頼んだ。
父は伊沢婆さんのもとへ足を運び、翌日には伊沢家が栞と赤司の婚約を発表した。
けれど、栞は知らなかった。
赤司には初恋の相手がいて、自分が二人を引き裂いたのだと――。
そして今、立場は逆転した。
赤司が、綾部家を救ってくれるはずがない。
救急室のランプがふっと消えた。父は一命を取り留め、容体は安定し、一般病棟へ移される。
栞の胸に張りついていた石が、ようやく少しだけ転がり落ちた。
「お父さんはもう峠を越えた。ここは私が守る。さっきの話、忘れないで」
「……分かった」
三川の苑。
ソファに腰を下ろした栞は、伊沢赤司に電話をかけた。
呼び出し音は短く、すぐに繋がる。栞はひとつ息を沈め、凪いだ声で告げた。
「戻ってきて。離婚協議書、取りに来て」
言い切るや否や、返事を待たずに通話を切った。
三十分後、玄関の扉が開く音がした。
さっきまで少し崩れていた姿勢が、その物音だけでぴんと正される。
伊沢赤司が、風塵をまとったまま大股で入ってくる。
栞の白黒のはっきりした杏眼に、かすかな皮肉が滲んだ。
彼がここへ足を踏み入れたのは、一か月ぶりだ。あの夜の翌日、理由も告げられないまま、弁護士経由で離婚協議書が届いた。まるで「時期が来た。署名しろ」と言わんばかりに。
前夜まで温もりを交わした男が、なぜ翌日に離婚を――。
今日、佐野小雪の姿を見て、ようやく答えが落ちた。
赤司は栞の前で足を止め、真っ先にテーブルの上の協議書へ視線を落とす。署名欄は、空白のまま。
露骨な苛立ちが、彼の表情に浮かんだ。
「綾部栞。今度は何を企んでる?」
栞は声を荒らげないまま、ゆっくり返す。
「私があなたの前で、何か企んだことあった?」
赤司は無表情で見ているだけで、答えない。
栞は赤い唇を軽く結び、ふっと息を吐いた。それから目を上げ、まっすぐ赤司を見据える。
「佐野さんが帰国したから離婚したいの?」
「それとも、綾部家が危ないから……落ちぶれた私が、あなたに釣り合わなくなった?」
赤司は淡々と一瞥し、向かいのソファへ腰を下ろす。
「違いがあるのか?」
その一言が、胸の内側に突き立った。
栞は喉の奥の痛みを押し込み、協議書を手に取る。10億の補償金と、不動産一件。ページを二枚ほどめくり、淡く言った。
「10億はいらない。その代わり条件がある」
赤司の顔に、「やはりな」という影が走る。
「言え」
「綾部家を助けて」
「それから離婚したあとは、理由が何であれ……互いに関わらないで」
言い終えた瞬間、低い笑いが落ちた。
「関わらない?」
「お前、俺が惚れるとでも思ってるのか?」
低く掠れた笑い声が、やけに耳障りだった。嘲りの刃で皮膚を削がれるようで、栞は一瞬、息が詰まる。
――惚れるわけがない。けれど彼は、子どもの親権を取りにくる。
胸のざわめきを飲み込み、言い返そうとした、その前に。
赤司の声が冷たく落ちた。
「綾部栞。俺は一生、お前を愛さない」
「離婚はする。だが、その話は断る」
「綾部グループが潰れるのは時間の問題だ。時代は移る。いつまでも強い会社なんてない」
「腐りきった集团に、なぜ俺が手間をかける」
半分伏せた瞳の奥を、栞は読み取れない。けれど、そこに温度がないことだけは分かった。
栞の視線が沈む。反論しかけた瞬間、赤司の携帯がテーブルの上でぶるぶると震えた。
画面を見るなり、赤司は立ち上がって出る。
「小雪、落ち着いて。すぐ行く」
栞は一瞬、思考が止まった。
通話を切った赤司が振り返り、栞を一瞥する。声には感情が欠片もない。
「綾部栞。無駄な時間はやめよう」
栞は答えない。長い睫毛が、落胆を隠すように伏せられる。
赤司の足音が、早足で遠ざかっていった。
ソファに取り残され、栞はしばらく動けなかった。気づけば目尻から涙が溢れ、頬を伝っていた。肩が小さく震え、声を殺して泣く。
母を早くに亡くし、父は栞を溺愛した。会社を継ぎたくない、医者になりたいと言えば背中を押してくれた。伊沢赤司が好きだと言えば、伊沢家という火種を抱え込んだ。
その父が倒れて――自分は、何ひとつ救えない。
着信音が鳴る。
栞は涙を拭い、画面を見てわずかに息を呑んだ。迷った末に通話を取る。
「……はい」
声が掠れないよう、必死に整える。
『若奥様。大奥様が今夜、本宅で夕食をと仰ってます』
「分かりました」
伊沢本家。
「栞、立田さんに鶏スープを炊かせたのよ。たくさん飲みなさい。最近また痩せたじゃない」
伊沢婆さんは慈しむように言い、使用人に椀を持たせた。
「ありがとうございます、お婆さん」
栞は微笑んで受け取り、胸の澱をそっと奥へ沈めた。
婆さんは満足そうにうなずき、ふと気遣うように尋ねる。
「赤司、最近もあなたに優しくしてる?」
スプーンを握る指先が冷たくなる。
心配をかけたくなくて、栞は笑みを深めた。
「赤司は、いつも優しいです」
婆さんは頷き、続けて言う。
「結婚してもう随分ね」
「そろそろ子どもの準備もしなきゃ」
栞は唇を結び、言葉を失った。胸の奥が、理由もなくざわつく。
そこへ婆さんが、何気ない声で付け足す。
「林田さんから聞いたの。今月、まだ来てないんですって?」
