第4章 お久しぶりです

「全部、私のせいなの」

あのとき、自分があそこまで必死に伊沢赤司と佐野小雪のことを反対しなければ――もしかしたら赤司は、もっと早く佐野小雪の本性を見抜いていたのかもしれない。

綾部栞はそっと唇を噛んだ。胸の奥がじんと熱くなり、鼻の奥がつんとする。言いようのない悔しさや悲しさが、いっせいに込み上げてきた。

呼吸を浅く整え、今にも滲みそうな涙をどうにか押しとどめる。そしてかすかに微笑み、静かな声で言った。

「おばあさまのせいじゃありません。私と赤司さんに、ご縁がなかっただけです」

彼と結婚して、もう三年。

氷の塊だって、これだけ一緒にいれば角のひとつくらいは溶けるはずなのに、伊沢赤司は最後まで彼女を愛さなかった。

なら、誰かを責めるのは違う。

伊沢老太太は綾部栞の手をきゅっと握りしめた。

「いい子ね。赤司も、いつかきっと分かるわ。あの子に心から尽くしているのが、あなただって」

「私が生きている限り、伊沢家の若奥様はあなたよ。ずっとね」

真剣そのものの眼差しに、綾部栞の胸がじわりと温かくなる。

たとえこの結婚が、そう長くは続かないとしても――この結婚の中で、心から自分を大切にしてくれるおばあさまに出会えた。

そう思えば、少しだけ救われる気がした。

全部が全部、悔いばかりでもないのだと。

綾部栞は、伊沢老太太が眠りにつくのを見届けてから病室を出た。

静かに扉を閉め、ふと横を向く。

すると、病室の外に置かれた長椅子に、伊沢赤司が腰を下ろしていた。

視線が、思いがけずぶつかる。

綾部栞はすぐに目を逸らし、淡々と言った。

「おばあさま、眠られました」

「もう帰っていいです。ここは私がついていますから」

言い終えるやいなや、そばに控えていた使用人が慌てて口を挟んだ。

「若様、若奥様、どうぞお二人ともお戻りくださいませ。こちらは私がお付きいたしますので」

「若様は明日もお仕事がおありですし、若奥様も手術がおありでしょう。お休みにならないと」

綾部栞が何か言おうとした、その前に。

伊沢赤司が椅子から立ち上がり、冷ややかに彼女を一瞥した。

「送る」

短く、それだけ。

綾部栞は断ろうとしたが、男はすでに無言のまま彼女の脇を通り過ぎていた。

唇を噛み、結局その背を追う。

二人はそのまま病院を出た。

伊沢赤司は横目に、ガラス窓へぼんやり映る人影を見た。

綾部栞が少し後ろをついてきている。

うつむいたままのその姿は、なぜだか妙に頼りなく見えた。

道中、言葉はひとつもない。

住まいに着き、車が止まると、綾部栞はすぐにドアを開けて降りた。

さっきまでより、明らかに足取りが速い。

伊沢赤司は眉をひそめた。

何か言おうとして、結局喉元で言葉が止まる。瞳の色がわずかに沈んだ。

「出せ」

綾部栞は遠ざかる車を見送った。

引き止めはしない。

どうせ、いずれ離婚する。

伊沢赤司が綾部グループを助ける気がないのなら、自分で別の道を探すしかない。

それに――子ども。

綾部栞はそっと腹部に手を当てた。

このことを、あとどれくらい隠し通せるのか、自分でも分からない。

車が走り出してかなり経っても、伊沢赤司の頭からは、離婚の条件を断られたときの綾部栞のあの虚ろな顔が離れなかった。

胸の奥がむやみにざらつく。

苛立ちまぎれに、指の関節を使ってネクタイを左右に引いて緩める。目つきが鋭く冷えた。

「綾部グループとの契約を切った会社、全部洗い出せ」

冷えた声が車内に落ちる。

前の席の秘書は一瞬、耳を疑った。

聞き間違いかと思い、バックミラー越しに無表情な男を確認してから、慌てて答える。

「かしこまりました、社長」

その夜も、伊沢赤司は結局一度も帰らなかった。

翌朝。

綾部栞は早くに起き、伊沢老太太のためにやわらかな粥を炊いて病院へ持って行った。

保温容器を提げて院内へ足を踏み入れた、そのとき。

正面から、ひどく疲れた顔の伊沢赤司が歩いてくるのが見えた。

昨夜と同じスーツのまま。

整った顔には、隠しきれない倦色が滲んでいる。

もしかして昨夜、ずっとここにいたの――おばあさまに付き添って?

綾部栞は目を見開いた。わずかに驚きが走る。

唇を軽く結び、声をかけようと一歩踏み出した、その瞬間。

「栞?」

少し離れた場所から、澄んだ、けれど弾むような男の声が飛んできた。

綾部栞ははっとして振り向く。

驚きと喜びが、そのまま瞳に浮かんだ。

「西衛!?」

最初は半信半疑だった声が、次の瞬間には確信へ変わる。

そこに立っていたのは、数年前に家族とともに海外へ移住した幼なじみ――宮本西衛だった。

「久しぶりだな」

綾部栞の目元がふっと和らぐ。

笑みをにじませ、彼のほうへ歩み寄った。

すると宮本西衛も足早に近づき、そのまま長い腕を伸ばして彼女を抱きしめた。

大きく、ためらいのない抱擁。しかも、なかなか離さない。

「ほんとに久しぶりだ。俺がいなかった間、少しは寂しがってくれたか?」

綾部栞は一瞬、体をこわばらせた。

急に抱きしめられ、どうしても戸惑う。

気まずさはあったが、すぐに思い直す。

海外生活の長い宮本西衛にとっては、こういう軽いハグも握手の延長のようなものなのだろう。ただの挨拶だ。

けれど次の瞬間、彼女の視線はほとんど反射的に伊沢赤司を探していた。

どこか慌てたように。弁解したいわけでもないのに、なぜか説明しなければならない気がして。

伊沢赤司は、綾部栞が見知らぬ男の腕の中にいるのを目にした。

足がわずかに止まる。

眉間には氷のような冷たさ。

しかも彼女は、抵抗していない。

その事実に、彼の目の色はさらに冷えた。

無言のまま視線を二人から外し、そのまま大股で去っていく。

綾部栞は、伊沢赤司が病院の外へまっすぐ歩いていくのを見た。

最初から最後まで、一度も自分を見ようとしない。

胸の奥で、淡い影がさっとよぎる。

「もちろん」

宮本西衛の言葉に、綾部栞は小さな声でそう返した。

だが、その声はどこかひどく疲れていた。

彼を懐かしく思っていたのは本当だ。

それだけじゃない。

宮本西衛がまだ海外へ行く前、あの頃へ戻れたらと何度思ったことか。

まだ伊沢赤司にも出会っていなくて、恋を知る前で。

世界は今よりずっと単純で、明るくて、悩みだって少なかった。

何年も経ったのに、宮本西衛の面差しは昔のまま、からりと晴れたように朗らかだ。

それに比べて自分は、ここ最近ですっかりくたびれてしまった気がする。

綾部栞は一歩下がり、宮本西衛の腕の中からそっと抜け出した。

ふいに腕の中が空になり、宮本西衛はおかしそうに眉を上げる。

綾部栞は微笑み、先に話題を変えた。

「どこか具合でも悪いの?」

宮本西衛は軽く首を振る。

まっすぐ彼女を見つめたまま、笑って言う。

「いや。栞に会いに来たんだ」

綾部栞はきょとんとした。

戸惑いと疑問がそのまま表情に出る。けれど同時に、視線はまた無意識に伊沢赤司の姿を追ってしまう。

そんな彼女の反応を見て、宮本西衛は思わず吹き出した。

声はやわらかい。

「俺が出国するとき、お前、ひどい泣き方してただろ」

「だから帰ってきたら、最初に会うのは絶対お前にしようって決めてた」

「ちょうど健康診断も受けようと思ってたし、せっかくだからお前の外来を取ったんだ」

その言葉を聞きながら、綾部栞はそっと赤い唇を結ぶ。

宮本家は昔、綾部家の隣だった。

二人は小さい頃からずっと一緒で、高校時代に離れ離れになったのだから、寂しかったのは確かだ。

彼が行ってしまったあと、長いこと落ち込んだのも本当だった。

けれど、それは恋とは違う。

ちょうどそのとき、視界の端に伊沢赤司の後ろ姿が映った。

遠ざかっていく背中が、まるで語っているようだった。

彼女が誰と何を話そうと、自分には興味がないのだと。

病院の外には、迎えの車がすでに着いていた。

運転手がドアを開ける。

伊沢赤司は一切立ち止まることなく、身をかがめて車へ乗り込んだ。

結婚して三年。

それでも、二人の関係を知る者はほんのわずかしかいない。

さっき彼があんなふうに足早に立ち去ったのも、彼女が人前で自分に声をかけるのを避けたかったからだろう。

ずっとそうだった。

彼は、二人の関係を表に出したがらない。

綾部栞は視線を引き戻し、まだ手元にある保温容器を見下ろした。

それから顔を上げ、宮本西衛に微笑む。

胸の奥の寂しさも、痛みも、ひとまずきれいにしまい込んで。

「届けたいものがあるの。先に私の診察室で待っててくれる?」

「すぐ戻るから、そのあと診るね」

宮本西衛は軽くうなずいた。

綾部栞の去っていく背中から目を離し、今度は伊沢赤司の車が走り去った方向へ視線を向ける。

病院の外。

伊沢赤司は冷えた顔のまま車に乗り込んだ。

胸の内に湧いた得体の知れない苛立ちが消えず、不機嫌はそのまま表情に出ている。

ハンドルを握る秘書は、いつにも増して険しいその顔色に肝を冷やした。

息を詰めるようにして運転する。

やがて伊沢赤司は、自分の感情が表に出すぎていたことに気づいたのか、瞳をわずかに沈めた。

深く息を落とし、声を平らに戻してから尋ねる。

「昨日の件、どうなった」

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