第5章 どうしても近寄ってくる
不意に、伊沢赤司が口を開いた。坂東補佐は即座に、綾部家のことを訊かれているのだと察する。
「調べはついております」
「綾部家がここ数年、巨額を投じて取得した用地が権利トラブルに巻き込まれておりまして、開発計画が一向に動かず、資金の回収ができていません」
「それに加えて、今年は負債の返済期限も重なりました。上流の資材業者や建設会社が相次いで契約を破棄し、進行中だった案件まで止まっています。損失はかなり大きく、借入の返済も難しい状況です。このままでは資金繰りは完全に行き詰まるかと」
伊沢赤司は眉をひそめ、表情を険しくした。
綾部グループが莫大な資金を改めて投下し、止まった案件を無理やりにでも動かさない限り、立て直しはまず不可能だろう。
なるほど、綾部栞が「綾部グループを助けてくれるなら離婚する」と条件を出したわけだ。
伊沢赤司が深く沈んだ目をしたまま黙り込んでいるのを見て、補佐はさらに慎重な声で続けた。
「奥様のお姉様は、最近もう綾部不動産の資産売却に動かれているそうです。負債返済のために。ただ、かなり悪質な買い叩きに遭っていて……市場価格より3割、ひどいものだとそれ以下です」
いま北区の商業圏では、綾部グループが持ちこたえられなくなるのを待ち、安値で拾おうとする者が大勢いる。
補佐は、ここまで聞けば伊沢赤司も何らかの指示を出すものと思っていた。だが、後部座席に腰を沈めた男は、ただ冷たく鋭い目をしているだけで、何ひとつ口にしない。
その胸中は、誰にも読めなかった。
病院。
綾部栞は宮本西衛の検査報告書を手に取り、細かく目を走らせていた。隅々まで確認し、異常がないことを確かめると、そのまま彼に返す。
「お体の各機能に問題はありません」
「こちら、検査結果です。失くさないようにしてください」
宮本西衛は、真剣な顔つきの綾部栞を見つめ、ふっと目元を和らげた。
「昔はすぐ泣いてた君が、今じゃこんなに立派な主治医か。なんだか信じられないな」
受け取った報告書に軽く目を落とし、彼はくすりと笑う。
「確か昔、君はお姉さんみたいな人になりたいって言ってただろう? それがどうして、急に医者なんか目指したんだ?」
綾部栞の笑みが、ほんのわずかに固まった。
伊沢赤司がかつて大怪我を負い、命を落としかけたことがある。あの頃の彼女は、彼に夢中だった。いちばん心が熱を帯びる年頃で、姉に反対されても聞かず、勢いのまま北区医科大学を志望したのだ。
――今思えば、若さゆえの向こう見ずだった。
もしあのとき医者の道を選んでいなければ、今ごろは綾部グループのために、自分を焼くように働いていたかもしれない。
「勢い、です」
そう答えた綾部栞の目の奥には、隠しきれない翳りが揺れていた。
宮本西衛は終始やわらかく笑っていたが、その澄んだ眼差しの底には、わずかに読めない深さが沈んでいる。
「医者もいい仕事だよ。人の役に立てる」
「綾部グループだって、きっと持ち直す。栞、あまり思いつめるな」
言いながら、彼は昔と変わらない手つきで綾部栞の頭をそっと撫でた。ひどく優しく、懐かしいほどに自然な仕草だった。
「今夜、何人か不動産関係の大物に会わせるよ。綾部家が抱えてる案件に、興味を示すかもしれない」
綾部グループ――その言葉を聞いた途端、綾部栞の顔はみるみる曇った。
そのとき。
「綾部先生、いらっしゃいますか?」
半開きだったドアが外から押され、佐野小雪が顔をのぞかせた。室内の光景を目にした彼女は一瞬きょとんとし、それから気まずそうに笑う。
「すみません、ドアが閉まりきっていなかったので……。お邪魔でした?」
患者が来たと見るや、宮本西衛は何事もなかったように手を引っ込め、机上の診断書を取り上げて立ち上がった。
「仕事が終わったら迎えに来る」
綾部栞が返事をする前に、彼はそのまま部屋を出ていく。
佐野小雪は微笑みながら脇へ身を寄せ、彼を通した。
「今の方、先生の彼氏さんですか? すごく素敵な方ですね」
綾部栞の目がわずかに沈む。否定も説明もせず、戸口に立ったままの佐野小雪を見て、小さく首を傾げた。
「佐野さん、私に何か?」
佐野小雪は綾部栞の顔を見て、はっとしたように目を輝かせる。
「あっ、昨日の……」
綾部栞はそこには触れず、彼女の手元にある検査報告書へ視線を落とした。
佐野小雪もすぐに気づき、慌ててそれを差し出す。
「産婦人科の立花先生に、これを持って先生のところへ行くよう言われて……」
綾部栞は内心、訝しんだ。立花芳南が、どうしてこんな厄介な案件を自分に回してきたのか。
報告書を受け取り、上部の診断欄を見た瞬間、彼女の表情が変わる。
――妊娠していない。
綾部栞は無言のまま、佐野小雪のカルテをめくった。
その空気に耐えきれなくなったのか、佐野小雪が不安げに口を開く。
「綾部先生……私、どこか悪いんでしょうか?」
綾部栞は低く「ええ」と答え、顔を上げた。
「今日の検査では、子宮内に胎児の所見は確認できませんでした」
「この場合、さらに精査が必要です。妊娠と誤認されるケースは、主に二つあります。ひとつは子宮外妊娠、もうひとつは卵巣腫瘍です」
「どちらであっても、状況によっては早急な手術が必要になります。ご家族の同意書への署名も必要です」
佐野小雪の表情がこわばる。うつむいたまま、長いこと黙り込んだあと、ようやく綾部栞を見た。
「……恋人でも、署名できますか?」
その一言に、綾部栞の手が、検査指示書を書きかけたところでぴたりと止まった。
胸の奥に、じわりと苦いものが滲む。
「できます」
淡々とそう告げ、彼女は記入を終えた用紙を佐野小雪に渡す。
「こちらを持って、検査を受けてきてください」
佐野小雪はこくりと頷き、用紙を受け取ると立ち上がった。そしてその場で携帯を取り出し、伊沢赤司に電話をかける。
その声はか細く、今にも崩れそうで、まるで重い病を宣告された人間のようだった。
「赤司……病院に来て。私、体に何かあったみたいなの」
去っていく後ろ姿を見送りながら、綾部栞は眉間を揉んだ。
やはり、甘え上手な女のほうが愛されるのだろうか。
自嘲がひとつ、胸の内でだけ零れる。
机の上の書類を整えながら、彼女は小さく息をついた。ほどなく手術が入っている。でなければ伊沢赤司と鉢合わせしていただろう。
合法的な妻である自分の前に、夫が初恋の女を連れて診察に来る。
考えるだけで胸が詰まる。
少しでも二人に心を乱されたくなくて、綾部栞は早めに手術室へ向かい、術前準備に入った。
4時間後。
綾部栞が手術台を降りた頃には、外はもう薄暗く沈んでいた。4時間に及ぶ高負荷の執刀で、心身ともにへとへとだった。
それに加えて妊娠初期だ。手術室から出た彼女の指先は、かすかに震えている。
彼女についていた男性研修医が、その疲れ切った様子にすぐ気づき、慌ててそばに寄った。
「綾部先生、お疲れさまでした」
そう言って、敬意のこもった手つきで彼女を支える。
綾部栞はやわらかく笑い、好意を無下にはしなかった。
「もう若くないから」
軽い冗談のつもりだった。
だが、その言葉が落ちた瞬間、肌を切るように鋭い視線を感じた。
綾部栞が横を見る。
少し離れた場所に、伊沢赤司が佐野小雪を伴い、冷え切った顔で立っていた。
綾部栞の動きが止まる。
そして静かに、自分の手を研修医の支えから引き抜いた。
その横では、科の医長が愛想笑いを浮かべたまま、いそいそと近づいてくる。
「綾部先生、ようやく上がりましたか。伊沢社長と佐野さん、何時間もお待ちだったんですよ」
「伊沢社長は先生の腕を大変高く評価されてましてね。ぜひ先生に佐野さんの手術をお願いしたいと。さあ、早く診てあげてください」
そう言ってから、医長は声を潜め、綾部栞にだけ聞こえるよう囁いた。
「伊沢社長がおっしゃってるんです。先生が佐野さんの手術を引き受けてくださるなら、病院に最新の医療機器を一式寄贈すると」
「綾部栞先生。うちの患者さんたちが新しい機材を使えるかどうかは、あなたにかかってますよ」
綾部栞は眉を寄せた。
普段は穏やかな彼女でも、さすがに不快感を抑えきれない。
伊沢赤司は、本気でどうかしている。
こちらがわざわざ避けているのに、向こうから踏み込んでくるなんて。
手術中に感情を抑えきれず、あの高嶺の花を本当に死なせてしまうかもしれない――そんな想像さえ、よぎった。
