第2章 愛人が堂々と家に入り込む
霧島絢香は首を横に振り、唇の端に無理やり笑みを貼りつけた。
「冗談よ」
九条雅人はようやく息をつき、眉をひそめる。
「そんなことを冗談にするな。最近、度が過ぎる」
そう言い捨てると踵を返し、二階へ上がって書斎に消えた。
霧島絢香はその真っ直ぐな背中を見送りながら、目の縁がじわりと赤く染まっていくのを止められなかった。
寝室へ戻り、スーツケースを引っ張り出す。
自分の服を一枚ずつ、黙々と詰めていく。
詰め終えたあと、そっと下腹部に手を当てた。胸の奥に苦みが広がる。
ねえ、どうしよう……パパ、私たちを要らないって……
霧島絢香は、幼い頃から幸せで穏やかな家庭で育った。
父は寛容で温厚、母は昔ながらの専業主婦。二人が声を荒らげるところなど、ほとんど見たことがない。
結婚とは、両親のように支え合い、受け入れ合うもの——ずっとそう信じていた。
だから九条雅人が自分を好きではないと分かっていながらも、三年間、従順な妻を演じ続けた。
けれど。
愛のない男を温めることはできない。
霧島絢香は離婚協議書の中身すら見ず、署名欄に迷いなく名前を書き入れた。
翌朝。
署名済みの離婚協議書を九条雅人の書斎の机に置いた直後、父から電話がかかってきた。
「絢香、いつ帰ってくるんだ? 雅人くんがブルーベリーが好きだって聞いてな。母さんがブルーベリーをたくさん買ってきた。二人で食べにおいで」
霧島絢香は机の上の離婚協議書を見て、胸がぎゅっと痛んだ。
両親は昔から自分を溺愛してくれている。九条家に嫁いでからはなおさら、あの手この手で九条雅人に取り入ろうとしていた。
——自分が九条家で少しでも楽に過ごせるように。
離婚のことを知られたくない。霧島絢香は深く息を吸い、平静を装った。
「雅人、最近忙しくて。数日したらね」
「そうか……」父の声が少し落ち込む。
「それで、九条家でうまくやれてるか? 心配なら、父さんと母さんで様子を見に行ってもいいんだぞ」
霧島絢香は柔らかく答えた。
「大丈夫。心配しないで。近いうちに、実家に帰るから」
少し話して電話を切ると、霧島絢香は重たい身体を支えながら階段を下りた。
——その瞬間。
玄関から、九条雅人が桜井陽菜を支えながら入ってきた。
桜井陽菜は相変わらず儚げで、霧島絢香を見るなり驚いたように言った。
「雅人……お客さまがいるなんて知らなかった」
霧島絢香は眉を寄せる。
やはり九条雅人は、結婚していることすら桜井陽菜に伝えていない。
当時、彼の結婚は家の都合で急いで決まった。大々的に発表したわけでもなく、界隈では「九条夫人」が誰か知らない者も多い。
桜井陽菜は霧島絢香へ歩み寄り、堂々と手を差し出した。
「桜井陽菜です。あなたは……?」
そう言って、隣の九条雅人を見上げる。
九条雅人は伏し目がちに、表情を変えずに言った。
「霧島絢香だ。霧島家の次女」
霧島知世と九条美幸が親しいことは有名だ。桜井陽菜も、霧島絢香の素性に驚かなかった。
「霧島家の次女があなたなのね。こんなところで会うなんて偶然」
上品な笑み。疑うようなニュアンスを含ませながらも、不快にさせない話し方。
霧島絢香の胸に苦味が広がる。
彼女も笑って、さりげなく刺した。
「桜井さん、帰国は……九条社長とヨリを戻すため?」
九条雅人の眉がわずかに動いた。
桜井陽菜は一瞬固まり、恥じらうように九条雅人を見て、甘えた声で責める。
「もう。私たちのこと、あちこちで話さないでって言ったのに」
否定しない。
その事実に、霧島絢香の体温がすっと引いていく。
九条雅人もどこかぎこちなく、冷えた顔で霧島絢香に告げた。
「陽菜は体調が悪い。しばらくここで静養させる。お前はこの数日、出て行け」
霧島絢香の表情が凍りつく。
まだ離婚すら成立していないのに、もう元恋人を家に入れ、しかも自分を追い出す。
出て行くつもりはあった。だが、それでも彼女は意地を張った。
「……つまり、元の持ち主に返せってこと?」
桜井陽菜が驚き、九条雅人に視線を投げる。
「雅人……その言い方、どういう意味……」
九条雅人の眉が深く刻まれ、冷たい目が霧島絢香を射抜いた。
「何をしている。昨日の話で分からなかったのか」
霧島絢香は淡々と言う。
「そこまで大事にしてるなら——お腹の子、あなたの子なの?」
桜井陽菜がようやく二人の空気の異様さに気づき、涙ぐみながら九条雅人の袖をつまんだ。
「雅人……私、迷惑だった? だったら病院に戻る……」
「あなたも」霧島絢香はもう抑えなかった。桜井陽菜にも刃を向ける。
「そんなに九条雅人が必要なら、どうして彼がプロポーズしたときに結婚しなかったの?」
桜井陽菜は口を開け閉めし、返す言葉を失う。
「絢香、頭がおかしくなったのか!」
九条雅人が怒鳴り、霧島絢香の腕を掴んで階段へ引きずる。
「来い!」
桜井陽菜はその場に立ち尽くし、霧島絢香を見る目がいっそう冷たくなった。
九条雅人は霧島絢香を寝室へ連れていき、扉を閉めるなり責め立てた。
「絢香、警告しておく。もうすぐ離婚だ。今さら面倒を起こすな」
霧島絢香は冷笑して返す。
「彼女に、あなたが既婚者だって知られるのが怖い?」
九条雅人の顔が沈む。
「お前には関係ない」
霧島絢香の心は、完全に死んだ。
絶望のまま、彼を見上げる。
「雅人……私は、あなたにとって呼べば来て、邪魔なら捨てる道具なの? まだ離婚してないのに、元カノを家に入れて……私は何?」
「絢香、自分の立場をわきまえろ。俺たちは協議結婚だ。祖母が無理やり結婚させなければ、お前が三年も九条夫人でいられたと思うか」
冷たい声が、刃のように胸を裂いた。
霧島絢香は黙った。
九条美幸が霧島家へ縁談に来て、霧島絢香を一目で気に入った。どうしても嫁に迎えたいと。
霧島絢香も九条雅人に好意があり、九条美幸に背中を押される形で承諾した。
だが「未来の九条夫人」として九条雅人に会いに行ったとき、彼が投げてよこしたのは婚前契約書だった。
三年限定の夫婦。三年後、九条グループの株を完全に掌握したら離婚する。
悔しくても、彼女は頷いた。
それからというもの、九条家での彼女の立場は曖昧になった。九条雅人は彼女を外に公表せず、彼女は泥棒のようにその家で三年を過ごした。
九条美幸以外、誰もまともに彼女を見なかった。
九条雅人は俯いた彼女の涙に気づいたのか、ため息をつき、少しだけ声を和らげた。
「離婚したら、九条グループの株と不動産をいくらか渡す。後の人生、困らない程度には」
霧島絢香は赤い目で見上げる。
「……私があなたと結婚したのは、お金のためだと思ってるの?」
九条雅人は視線を逸らし、答えない。
「雅人、私……」
妊娠のことを告げようとした、その瞬間。
ドアの外から激しいノックが響いた。
使用人の切迫した声。
「九条若様! 大変です、桜井さんが下で倒れました!」
