第5章 愛人と一緒に入居する
「おばあさま、それは……やっぱり……」霧島絢香はとうとう笑みを保てなくなった。
次の瞬間、霧島知世は九条雅人の腕をぐいっとひねり上げ、呆れと苛立ちを隠しもせず怒鳴った。
「このバカ孫、ぼさっとしてないで、さっさと絢香を連れて帰りなさい!」
「ここ数日は死ぬ気で点数を稼ぐのよ。バッグにアクセサリー、ケーキに花束――ためらわずにカードを切りなさい!」
九条雅人は目を瞬かせた。
祖母はまた、何を言い出すつもりだ。
男の目つきがすっと沈み、眉間には深いしわが刻まれる。露骨なくらい気が進まない顔だった。
もともと二人は協議結婚だ。
そこに情などない。無理に縛りつけたところで、何になる。
けれど九条美幸はそんな理屈など一切受けつけない。すぐさまスマホを取り出し、買い物アプリを開きながらまくし立てた。
「女の子の機嫌の取り方も知らないの? 今どきの子たちがどうやって恋愛してるか、少しは見習いなさい」
「あんたなんて、ほんと木でできた人形みたいなもんだよ」
「この年寄りの私のほうが、よっぽどうまくやれるわ」
「私が絢香だったら、昔の私は絶対あんたなんか追いかけ回さなかったね」
その横で、霧島絢香は九条美幸が慣れた手つきで画面をすいすい操作する様子を見つめ、思わず口元を引きつらせた。
ここまで来てしまえば、もう誰にも言い返せない。
九条美幸の体は丈夫ではない。こんなことで気を悪くして倒れでもしたら、大ごとだ。
絢香は観念して、小さく息をついた。
「……分かりました。おばあさまのおっしゃる通りにします」
部屋の中が、しんと静まる。
しばらくしてから、九条雅人も低くかすれた声で言った。
「……分かった」
いったい霧島絢香がどんな手を使ったのか。
祖母がここまで彼女を気に入っている理由が、雅人にはどうしても分からない。
だが、九条美幸はその返事すら気に食わなかった。
「何が『分かった』よ!」
「いい歳した男が、嫁のご機嫌取りまで年寄りにやらせるんじゃないよ!」
「私がいなかったら、あんた結婚できてたと思ってるの?」
九条雅人は無言になる。
祖母は本当に、彼の面子をこれっぽっちも残してはくれない。
絢香ももう、何を言えばいいのか分からなかった。
九条美幸に止められている以上、しばらく離婚は進まないだろう。
けれど、P市のことは――。
そのとき、不意に九条美幸が振り向き、いっそう優しい声で言った。
「絢香ちゃん、帰ったらこの子の様子をちゃんと見ておきなさい。もし少しでもいじめられたら、すぐ私に電話するのよ。私がきっちり叱ってやるから」
絢香はそのまっすぐな眼差しを見て、胸の奥がつんと痛んだ。
結局、彼女はうなずくしかなかった。
「……はい。おばあさまの言うこと、ちゃんと聞きます」
ここでなお断ったら、九条美幸はきっと心配で眠れなくなる。
――なら、少しの間だけ付き合おう。
九条美幸を安心させるための、芝居だと思えばいい。
どうせ一緒に暮らすつもりはない。
自分が発つ前に、改めてきちんと話せばいいのだから。
ようやく満足したらしく、九条美幸はひらひらと手を振った。
「よし、それでいいわ。雅人、絢香を送っていきなさい」
「それと早く、私にひ孫を抱かせてちょうだいね」
ぼんっと音がしそうなほど、一気に絢香の顔が真っ赤に染まる。
「おばあさま……!」
けれど、自分がもう九条家の子を身ごもっていることは言えなかった。
言ってしまえば、きっとますます離れられなくなる。
九条美幸は彼女の照れた様子を見て、いっそう目元を和ませるだけだった。
一方の九条雅人は、さっさと背を向けて外へ向かう。
これ以上一秒たりとも待つ気はないらしい。
三年も一緒にいれば分かる。
――彼は、怒っている。
けれど今の絢香には、もうどうでもよかった。
離婚したくないとごねているのは、自分のほうではないのだから。
絢香は祖母に別れの挨拶をし、次は一緒に動画を撮りましょうと約束までして、屋敷を出た。
五分後。
九条家本邸を出ると、少し離れた場所にカイエンが停まっていた。
すっと車窓が下がり、九条雅人が冷え切った声で言う。
「乗れ」
開いた窓から、かすかに煙草の匂いが流れてくる。
絢香はわずかに眉をひそめたが、何も言わずドアを開けて乗り込んだ。
車内の空気は、息が詰まるほど重い。
本邸を離れてしばらくしてから、不意に九条雅人が口を開いた。声音には露骨な嘲りが混じっている。
「金が足りないなら、最初からそう言えばいい。わざわざ祖母を盾にする必要があったのか」
絢香はシートに背を預けたまま、目を閉じる。
弁解する気力すらなかった。
窓を少しだけ下ろし、外から流れ込む風を吸い込んで、ようやく少し息がしやすくなる。
だが、その沈黙は雅人には肯定にしか見えなかった。
胸の内の苛立ちがさらに膨れ上がり、男はアクセルを深く踏み込む。低いエンジン音が車内を震わせた。
「くだらない真似はやめておけ。九条家にしがみついたところで、お前に得はない」
絢香は胸の奥が鈍く痛むのを感じた。
――そんなに急いで、私との関係を切りたいの。
崩れそうになる感情を必死に押し殺し、彼女はどこまでも平坦な声で言った。
「九条雅人。私が戻ると答えたのは、おばあさまのためよ。余計な心労をかけたくなかっただけ」
「数日したら、ちゃんと出ていくわ」
ちょうど前方は幹線道路だった。
信号をひとつ越えたところで、絢香が短く言う。
「停めて」
九条雅人は鋭く眉をひそめた。声には隠そうともしない苛立ちが滲む。
「ふざけるのもいい加減にしろ。本邸を出た時点でもう誰も見ていない。芝居は終わりだ」
絢香の声は、押し殺した涙でかすれていた。
「停めてって言ってるの!」
「おばあさまの目が届かない場所なら、もう誰も演じなくていいでしょう。ここで降ろして」
九条雅人は鼻で笑う。
以前よりずいぶん気が強くなったものだ。
こうして自分に言い返せるようになったのは、甘やかしすぎたせいかもしれない――そんな苛立ちすら胸をよぎる。
男は冷笑した。
「……好きにしろ」
次の瞬間、車は急ブレーキをかけて路肩に寄せられた。
絢香はためらいなくドアを押し開け、車を降りる。
その動きに、未練らしい未練はひとかけらもなかった。
彼女の足が地面に着いた瞬間、カイエンはそのまま走り去っていく。
絢香の胸に、じわりと渋い痛みが広がった。
――そう。これが九条雅人だ。
一度だって、自分のために立ち止まってはくれなかった男。
彼女はバッグを握り直し、深く息を吸ってから、通りかかったタクシーに手を挙げた。
その頃には、九条雅人はすでに二つ先の通りまで出ていた。
端整な横顔には、ぞっとするほどの冷たさが宿っている。
ふいに、男は口の端を歪める。
「駆け引きだけは、ずいぶん上達したな」
どうせ二日もすれば、また前みたいに自分から謝って寄ってくる。
彼は、そう信じて疑わなかった。
やがて日が傾き始める。
絢香は自分のアパートへ戻った。
ソファに腰を下ろすと、室内の柔らかな灯りでさえ、顔に刻まれた疲労を隠してはくれない。
彼女は窓の外の夜景をぼんやり見つめ、それからそっと下腹部に手を当てた。唇に浮かぶのは、かすかな笑み。
――もう少し待っててね。
ママ、すぐにあなたを連れてここを出るから。
まだ時間が早いうちに、絢香は着替えを数枚だけ簡単にまとめた。
どうせ数日後には出ていく。
あれこれ持ち運ぶのは面倒なだけだ。
祖母に見せるための芝居――それだけ。
翌朝、十時。
絢香はスーツケースを引き、タクシーで九条家の別邸へ向かった。
けれど門の前まで来たところで、足が止まる。
九条雅人の車が、庭先に停まっていた。
そしてちょうどそのとき、桜井陽菜が雅人の腕にそっと自分の腕を絡め、柔らかく微笑んでいた。
「雅人、この前は本当にありがとう。あなたがいなかったら、どうなっていたか……」
上質なオーダーメイドのワンピース。
整えられた笑み。
九条雅人が車のドアを閉め、冷えた面差しをほんの一瞬だけ和らげる。
「礼なんていらない」
「これからは、ここで安心して過ごせ」
――自分が出ていった、その足で連れてきたの。
本当に、待つ気すらない男だ。
そのとき桜井陽菜がふと顔を上げ、スーツケースを引く絢香に気づいた。そして、いかにも驚いたふうに声を上げる。
「絢香さん……? どうしてここに?」
九条雅人の動きが止まり、振り返った瞬間、眉間に深いしわが刻まれた。
けれど陽菜へ向ける声だけは柔らかい。
「先に中で待っていてくれ」
そう言うなり、大股で絢香のほうへ歩み寄り、その腕をつかんで脇へ引く。
「絢香、お前わざとか。このタイミングを狙って戻ってきたのか」
「陽菜は刺激しちゃいけない。あいつの前をうろつくな」
刺激しちゃいけない――。
なんて都合のいい言葉。
九条雅人が桜井陽菜を庇うその必死さを見て、絢香は胸の奥がひどく痛んだ。息が詰まるほどに。
彼女は勢いよく腕を振りほどく。
視線は静まり返っていて、何の感情も映していない。
「私だって、好きで戻ってきたわけじゃない」
