第6章 家庭の温もり

当時――九条雅人は胃が弱かった。

霧島絢香は1日に3回、会社まで手作りの弁当を届けた。雨の日も風の日も、3年。

それで、車にひかれそうになったときでさえ。

彼は一度だって、心配する素振りを見せなかった。

それなのに今は、桜井陽菜に少しでも嫌な思いをさせたくない。

――これが、愛されることと、愛されないことの差。

九条雅人は鼻で笑い、冷えた視線を絢香のスーツケースへ落とした。

「忠告しておく。いい加減に引け。俺たちはもう終わってる。周りに知られる必要もない」

「陽菜に近づくな。もし腹の子に何かあったら、お前じゃ責任が取れない」

「安心して」

霧島絢香の声は、羽のように軽かった。

「期限が来たら出ていく。自分から恥をかく趣味もない」

「それまでに、まずおばあさまの件を片付けて。離婚届が遅れるのは困るから」

誰よりも、ここを離れたかった。

言い切ると、絢香はそのままスーツケースを引いて別荘へ入っていく。

最初から最後まで、二人を見ようともしない。

九条雅人はその背中を見つめ、黒い瞳を細めた。

――そんなに、どうでもいいのか。

むしろ離婚したくてたまらない、とでも言うように。

いつから霧島絢香は変わった?

以前の彼女は、俺を見る目に光があった。

機嫌を取ろうとして、息をするみたいに気を遣った。

たった一言で、1日中うれしそうにしていた。

それが今は――温度がない。

他人を見るみたいな目。

思考が沈みかけたとき、桜井陽菜が近づいてきた。声は蜜みたいに甘い。

「雅人……絢香さん、怒ってる? だったら私、病院に戻ったほうが……」

九条雅人の周囲に冷気が立つ。胸のざわめきを押し込み、声だけは和らげた。

「どうでもいい相手だ。気にするな」

「部屋は用意してある。行くぞ。休め」

桜井陽菜は、いっそう柔らかく笑う。

「雅人、ほんとに優しい」

別荘に入った霧島絢香の耳に、九条雅人の「どうでもいい相手だ」が刺さるように届いた。

顔がさっと白くなる。涙が勝手に目尻からこぼれ、足元がぐらりと揺れた。

数年の夫婦が――彼にとっては「どうでもいい」。

自分が、ひどく惨めに思えた。

だめ。負の感情は、この子に悪い。

霧島絢香は大きく息を吸い、無理やり心を落ち着かせる。

2階へ上がるなり、鍵をかけた。外へ出て、これ以上自分から傷つきたくない。

ぶぶっ――。

デザイン画を描いている途中、スマホが震える。

画面を見た瞬間、目がぱっと明るくなった。

「……もしもし、お父さん?」

「絢香、ちゃんとご飯食べてるか?」

霧島英昭の声は笑みを含み、甘いほど優しい。

「お母さんがお前の好きな薬膳粥を作った。雅人が時間あるなら、2人で帰ってこい」

その声だけで泣きそうになる。絢香は必死に堪えた。

「お父さん。雅人、仕事が忙しいみたい。私だけ帰るね」

雅人は結婚してから一度も霧島家に顔を出していない。

今日だって、来るはずがない。

霧島英昭は一拍置き、慌てて言った。

「分かった。気をつけて帰ってこい」

父の気遣いに、張り詰めていた神経がほどけた。

霧島絢香はすぐ立ち上がる。帰りたい。今すぐ。

――お父さんとお母さんに会いたい。

着替えて階下へ降りると、桜井陽菜が使用人に花を運ばせているところだった。

視界に入れる気にもならず、絢香はそのままタクシーを呼び、霧島家へ向かった。

……

霧島家のリビング。

霧島英昭はソファで経済誌を読んでいた。顔を上げ、目尻を下げる。

「おっ、うちのお姫さまが帰ってきた。痩せたんじゃないか?」

霧島絢香は苦笑しながら腰を下ろした。

「玄関入る前からいい匂い。やっぱりお父さんとお母さんが一番」

霧島雪乃が果物を持って出てきて、軽く睨む。

「まったく……いくつになっても甘えん坊ね。雅人に意地悪されてるの?」

霧島絢香の胸が、ちくりと痛んだ。

視線を伏せ、その痛みを隠して、軽く笑う。

「そんなことないよ。ちゃんと優しい」

霧島雪乃は湯気の立つ薬膳粥をテーブルに置いた。

「ほら、食べなさい。2時間炊いたの。やわらかくしてあるわ」

霧島絢香は匙でひと口すくって口に運ぶ。

「……おいしい」

泣きそうになるほど。

子どもの頃から大好きな味。母にしか出せない、あの絶妙な口当たり。

九条家での3年、誰も彼女の好物など気にしなかった。

霧島英昭は絢香の青白い顔を見て、目に痛みを滲ませた。

「ゆっくり食べろ。誰も取らない」

そして、ためらいがちに続ける。

「絢香……雅人とは、最近どうだ? お前、痩せたぞ」

霧島絢香の手が止まる。

目を伏せ、声を淡くした。

「ちょっとしたすれ違い。時間が経てば大丈夫」

両親を心配させたくない。

離婚寸前だなんて、言えるはずもなかった。

「すれ違いか」霧島英昭は眉を寄せる。

「夫婦なら喧嘩もある。だが雅人は少し冷たい性格だ。お前が大人になってやれ」

「男は口下手なだけで、心にお前がいないとは限らない」

霧島雪乃もため息をつき、心配そうに言った。

「絢香、結婚ってそういうものよ。譲り合って、分かり合って」

「強がりすぎないで。折れる時は折れなさい。雅人だって、あなたのこと――」

折れる?

3年、彼女は柔らかい饅頭みたいに潰され続けた。

霧島絢香は曖昧に頷き、苦みを飲み込む。

九条雅人の心に自分がいる?

それなら、あんなふうに捨てたりしない。

「そうだ、お父さん」絢香は話題を変えた。

「最近ずっと会社にいるけど、資金繰り厳しいの?」

霧島英昭の目が一瞬泳ぐ。すぐ手を振った。

「大したことじゃない。もう片付いた」

「お前は自分のことだけ考えなさい。身体を大事にしろ。じゃないとお父さんもお母さんも落ち着かない」

軽く言うほど小さな問題には思えない。

霧島グループは規模こそあるが、転換期で競争も激しい。案件も取りづらいはずだ。

だが父が言わない以上、絢香も踏み込めなかった。

帰り際。

両親は絢香の手を握り、霧島英昭が言った。

「絢香……過ぎたことを言うようだが、お父さんとお母さんから一つだけ」

「うん、なに?」

父の白髪混じりのこめかみを見て、胸がきゅっとなる。

「お前と雅人は結婚して3年だ。まだ子どもがいない」霧島英昭はため息をつく。

「九条家みたいな家は、どうしても跡継ぎを気にする」

「もし雅人の子を授かったら、お前も少しは楽になる」

霧島絢香の身体が強張り、無意識に下腹部へ手が伸びた。

複雑な感情が、目の奥で揺れる。

――子どもなら、もういる。

でも、こんなタイミングで来たことを、どう説明すればいい。

父親は、別の女とその子に心を奪われているのに。

「お父さん、気持ちは分かる」絢香の声は少し掠れた。

「でも子どもは縁だよ。無理にどうこうできない」

霧島英昭は諦めたように首を振り、補養品の箱を2つ持たせた。

「分かってる。だが少しは意識してくれ。お前は九条家で頼れる人が少ない」

「子どもがいれば、支えになる」

霧島絢香は涙を堪え、頷いた。

「……考える」

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