第1章 私には夫がいない

諏訪詩織は海外から予定より一日早く帰国した。

家に着くなり、玄関に置かれた赤いハイヒールが目に飛び込んでくる。

数秒、思考が止まった。

——私のじゃない。

それに、長谷川遥斗は他人を家に上げるのを嫌う人だったはずだ。

詩織はバッグを置き、奥へ進む。寝室のドアがわずかに開いていて、そこから声が漏れていた。

「遥斗……いま、あなたの子を妊娠してるの。いつ詩織に離婚の話をするの?」

甘く、か細い女の声。

ドアノブに伸ばしかけた手が、そのまま止まる。足の裏が床に縫い付けられたみたいに、動けない。

聞き覚えがあった。

林田美月。長谷川遥斗の幼なじみで、ずっと彼のそばにいた遊び相手。

詩織が遥斗と結婚した頃、美月は海外へ行った。

それが今——戻ってきただけじゃない。夫の子まで身ごもっている。

なのに、私は何も知らなかった。

「美月。俺は離婚するつもりはない」

遥斗の声は低く、静かだった。

「離婚しないって……じゃあ、私はどうなるの?」

美月が泣き声を混ぜて訴える。「遥斗、私のほうが詩織より長くあなたを知ってる。あなたが結婚する時だって、泣いて騒いだりしなかった。ひとりで海外へ行ったの。なのに今、妊娠したのに……私のことは考えなくてもいい。でも、この子のことは? 生まれた瞬間から父親がいないなんて……そんなのひどいよ……」

詩織の指先が震え、どうしても止まらない。

頭の中に雷が落ちたみたいに、視界が真っ白になった。

外では理想の夫。完璧で、隙がないと誰もが言う男。

それが、裏では——。

部屋の中が数秒だけ静まる。

次いで、美月の甘い喘ぎと、遥斗の荒い息づかいが重なった。

「遥斗……あなたも本当は私のこと、愛してるでしょ? 言ってたじゃない。詩織とするより、私としたほうが刺激的だって」

挑発するような声。

「……しゃべるな」

掠れた声のあと、女の嬌声が波のように続いた。

ドアノブから指が滑り落ちる。

開ける勇気なんて、どこにもない。耳に刺さる音に耐えきれず、詩織はふらふらと背を向け、リビングへ戻ってソファに崩れ落ちた。

テーブルのガラスに映る顔は、信じられないほど白い。

それを見つめているうちに、視界が滲んだ。

五年前、遥斗と結婚した時、誰もが言った。

「前世で運を使い切ったんじゃない?」と。

長谷川家は上流の中でも指折りの名家。遥斗は一人息子で、名門大学卒。三十で家業を継ぎ、資産は百億単位。遊び歩くような男でもなく、潔癖なくらいスキャンダルがないことで有名だった。

そんな完璧な男が、なぜか詩織だけを選び、猛然と口説いてきた。

結婚式の日、遥斗は皆の前で言った。

「詩織。俺は残りの人生を全部使って、お前を愛する」

あのときの私は、泣きそうなくらい幸せだった。

彼のためにF国留学の話も捨て、家に入り、専業主婦みたいに暮らした。

結婚五年。子どもはできなかった。

遥斗はいつも「もう少し待って」と言った。会社が落ち着いたら、忙しさが減ったら——そう言って。

今になってわかる。

待っていたのは会社じゃない。幼なじみの林田美月を落ち着かせるためだったのだ。

——

詩織は宛てもなく街を歩いた。人波が絶えず、ショーウィンドウは眩しい。

それなのに、どこへ行けばいいのかわからない。

適当なカフェに入り、席に落ち着く。

頼んだのはホットチョコレート。遥斗がよく「詩織にはこれだ」と勝手に注文してくれたもの。

そのとき、スマホが鳴った。

長谷川遥斗。

画面の名前を見ただけで胸が痛む。

呼び出し音が長く続いたあと、ようやく通話を取った。

「詩織、P市には着いたか?」

いつも通り、低くて優しい声。甘やかすみたいな響き。

「着いたよ」

本当はもう帰国しているのに、言えなかった。

「向こう、寒くないか? 今日、冷え込むって予報でさ」

「大丈夫」

「早く休めよ。明日帰ってきたら駅まで迎えに行く」

「……うん」

通話を切る。

運ばれてきたホットチョコレートを一口飲む。

甘い。

甘すぎて、舌が痺れるほど。

遥斗は知らない。

私は本当は甘いものが苦手だ。けれど「これがいい」と言われれば、うなずく癖がついてしまった。

そして——今日より前に、警告はあった。

一週間ほど前、匿名のメッセージが届いたのだ。

「あなたの夫は林田美月とマンションで3時間。昨日の深夜1時に出てきた」

その時の私は、気にも留めなかった。

美月の存在は知っていた。幼なじみで、両家は代々の付き合い。小さい頃から一緒に育った相手。

美月は遥斗より二つ年下で、いつも彼の後ろを追いかけていた。

結婚式では美月はブライズメイドまで務め、乾杯のとき赤い目で言ったのだ。

「遥斗、幸せになってね」

——だから、仲がいいだけだと思っていた。

彼女は恋人もできたと聞いていた。F国人と付き合い、向こうでギャラリーまで開いたと。

連絡が切れていなかったなんて。

ずっと、続いていたなんて。

カップの中身はまだ半分以上残っている。

甘ったるい匂いに胃がひっくり返りそうになり、詩織は口元を押さえて立ち上がった。

その瞬間、視界がふっと暗くなる。

天地が回り、足元が崩れ落ちた。

どさり。

テーブルの角にぶつかり、床にホットチョコレートが散った。

「お客様!? 大丈夫ですか!」

店員が駆け寄る声。

詩織は救急車を、と言おうとした。けれど意識が遠のき、言葉にならないまま闇に沈んだ。

——

目を開けると、白い天井。病院のベッドだった。

「やっと目が覚めましたね!」

若い看護師がカルテをめくる。「カフェで倒れて机の角にぶつけたので、額に少し青あざがあります。でも大したことはありません」

それから、呆れたように続けた。

「まったく……妊娠してるなら、もっと気をつけてください。ひとりでカフェなんて」

詩織の頭の中が、ぶわっと音を立てた。

「……いま、なんて?」

「え? ご存じなかったんですか?」

看護師は眉を寄せる。「妊娠8週ですよ」

雷が落ちた。

詩織は反射的に下腹に手を当てる。そこに——新しい命がいる。

夫の裏切りを知った、その日に。

ずっと待ち望んでいた子が来るなんて。

皮肉すぎて、笑えもしない。

「ご主人は? 連絡して、退院の迎えを頼んでください」

看護師に促され、詩織は喉の奥が詰まった。

遥斗は今、別の女と——。

そう思うだけで息が苦しい。

「……夫はいません。離婚しました」

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