第3章 私はあなたを信じる

諏訪詩織が帰宅すると、長谷川遥斗はもう戻っていて、リビングでスマホを眺めていた。

玄関の音に気づいた彼が顔を上げる。柔らかな笑みを浮かべて言った。

「どこ行ってた? 帰ってきたのにお前がいないから、ちょっと心配した」

「散歩」

詩織は靴を脱ぎながら答える。

「家にこもりっぱなしだと息が詰まるし、少しだけ外の空気吸ってきた」

遥斗は近づいてきて、背中から抱きしめた。

「次は俺も連れてけ。ひとりで出歩かれると落ち着かない」

詩織の身体がびくりと強張る。反射みたいに、その腕をほどいて距離を取った。

宙に残った遥斗の手。空気がすっと冷える。

「詩織……この数日、俺がちゃんと構ってないから怒ってるのか?」

詩織は何も言わない。

「俺の不注意だな」

遥斗はもう一度、彼女の手を取ろうとする。声だけはどこまでも優しい。

「しばらく、ずっと一緒にいよう。な?」

昔なら、その甘さに罪悪感を覚えていたはずだ。

けれど今は、作り物にしか見えない。

返事を探している間に、玄関のほうから甲高い女の声が突き刺さった。

「入れて! 遥斗に会わせて!」

使用人が困り果てた声で制止している。

「林田さん、困ります。旦那様と奥様はお休みで——」

窓越しに見えたのは林田美月の影。

詩織が遥斗へ視線を向けると、彼の顔色が沈んだ。

遥斗は詩織の手を離し、足早に玄関へ向かう。

だが間に合わない。扉が勢いよく押し開けられ、林田美月が飛び込んできた。

白いワンピース。長い髪を下ろし、頬には涙の跡。いかにも可哀想な顔をしている。

そして詩織を見た瞬間、泣き方がさらに大げさになった。

「遥斗……!」

美月は遥斗の裾を掴み、しゃくり上げる。

「探してたの。電話しても出てくれないし……だから、ここに来るしかなくて……」

詩織はリビングの真ん中で、ただ冷たく見下ろしていた。

「何の用だ」

遥斗は声を抑えた。

美月は遥斗を見上げ、次いで詩織へ視線を移す。

その瞬間、彼女はいきなり詩織のほうへ走り——

どさり。

床に膝をついた。

詩織は反射的に一歩引き、眉をひそめる。

「詩織さん!」

美月は詩織の手を掴み、涙をぽろぽろ落としながら訴えた。

「お願い……私と遥斗のこと、許して……!」

詩織は見下ろしたまま、言葉を返さない。

「詩織さん、私……遥斗の子を妊娠してるの」

美月は息も絶え絶えに言い募る。

「殴っても罵ってもいい。でも子どもは無罪なの……あなたも女なら、わかるでしょう……」

「林田美月!」

遥斗が青い顔で彼女を引き起こす。

「何を言ってる」

美月は涙を振り落とすみたいに首を振り、すがりつく。

「遥斗、私、本当にあなたがいないと……!」

「もういい!」

遥斗が遮り、詩織へ向き直る。視線が揺れている。

「詩織、聞くな。こいつは精神的に不安定なんだ。医者も言ってた、妄想がひどいって」

「遥斗……」

美月が縋る目で呼ぶ。

「黙れ!」

遥斗は美月を引っぱりながら玄関のほうへ向かう。

「送ってくる。あとで説明する」

美月は抵抗しつつ、振り返って詩織を見た。

その目に一瞬だけ、挑発が光る。

——遥斗は美月を裏庭へ連れて行った。

詩織はその場に立ち尽くし、数秒だけ迷ってから、そっと後を追った。

落地窓のカーテンの陰に身を潜める。窓は少し開いていて、外の声がはっきり届いた。

「美月。お前、何がしたい」

遥斗の声は低く、怒りを押し殺している。

「遥斗……」

美月の泣き声は甘ったるく、胸にまとわりつく。

「詩織に言おうよ。子どもに立場を……」

「ふざけるな」

氷みたいに冷たい声。

「詩織の前で余計なことを言ったら——わかってるな」

美月が息を呑む気配。

「三日やる」

遥斗が手を放す。

「三日以内に病院で処置しろ。それから金を持ってP市から消えろ。どこでも行け。二度と俺の前に現れるな」

「遥斗……」

美月の声が震える。

「そんなに、残酷なの……?」

遥斗は答えない。

足音が近づく。

詩織ははっとしてリビングへ戻り、何事もなかった顔でソファに腰を下ろした。

扉が開き、遥斗が入ってくる。

そこにはもう、いつもの優しい仮面が貼りついていた。

「詩織」

彼は隣に座り、手を握る。

「さっきのこと、気にするな。林田美月は昔から思い込みが激しいんだ。病院に行かせた」

詩織は彼を見つめた。胸の奥が、ひどく冷える。

この男は嘘をつく時、瞬きひとつしない。

「妊娠してるって言ってた」

詩織は静かに問う。

「本当なの?」

遥斗の表情が、ほんの一瞬だけ硬くなる。だがすぐに整え直した。

「ありえない。病気なんだよ。詩織、まさか俺を疑うのか?」

数秒の沈黙。

やがて詩織は、無理やり口角を持ち上げた。

「信じてる」

遥斗は安堵したように彼女を抱き寄せ、額にキスを落とす。

「さすが俺の詩織だ。わかってくれる」

詩織は動かなかった。

背中に隠したスマホで、さっきの会話はすべて録ってある。

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