第4章 私は妊娠した

落ち着いたカフェ。諏訪詩織は窓際の席に座り、車と人の流れをぼんやり眺めていた。視線は外に向いているのに、意識だけがどこか遠い。胸の奥が、うまく息を許してくれない。

「ごめん、遅れた。水音通りが渋滞でさ」

穏やかな声がして、詩織ははっと我に返る。

彼女は小さく笑い、店員を呼んで牧野徹にコーヒーを頼んだ。

「大丈夫。まずは落ち着いて」

徹は深く息を整えながら、詩織の顔色を見て眉を寄せる。

「……詩織。顔、悪い。平気か?」

詩織は唇をきゅっと結び、バッグからUSBメモリを取り出してテーブルに置いた。

「これ、長谷川遥斗の不貞の録音。これがあれば……離婚、少しは楽になるよね?」

徹の眉間が深く刻まれる。彼女がどうしてこんな顔をしているのか、ようやく腑に落ちたのだろう。

女が、自分の手で夫の裏切りの証拠を集める。残酷すぎる。だが、長く苦しむより短く痛んだほうがいい。

徹はUSBを丁寧に手に取り、まっすぐ見つめて言った。

「詩織。俺が助ける」

もう「諏訪さん」と距離を置いた呼び方はしない。

詩織の唇は血の気が薄く、苦い笑みだけが浮かぶ。

「……ありがとう、先輩」

「先輩はやめろ。徹でいい」

長居すれば長谷川遥斗に勘づかれる。詩織は立ち上がって頭を下げ、帰ろうとした——その瞬間、視界がふっと暗くなる。

ぐらり。

慌ててテーブルの縁に手をつき、倒れるのだけは避けたが、身体は大きく揺れた。

「詩織!」

徹が勢いよく立ち上がり、腕を掴んで支える。

しばらくして眩暈は引いた。背中には冷たい汗がにじみ、服が張りつく。それでも詩織は強がって言う。

「平気……」

だが、その顔は白紙みたいに真っ青だった。徹は低い声で言い切る。

「病院に行く」

「本当に大丈夫で……」

徹の手は離れない。苛立ちと心配が混ざった声音が落ちる。

「詩織。俺の知ってるお前は、こんなふうに自分を粗末にする人間じゃない。失敗した結婚のために、身体まで壊す気か」

再会してから初めての強い言葉。なのに、胸の奥が不意に温かくなった。責めているのに、心配が隠せていない。

詩織は視線を落とし、まだ平らな下腹にそっと触れた。ここを危険に晒すわけにはいかない。

「……手数をかけちゃうけど、お願い」

徹は詩織を支えながらカフェを出て、車へ乗せる。ナビを最寄りの病院へ入れ、発進しようとしてからスマホを操作し、ふと思い出したように尋ねた。

「どこが辛い? どの科で予約を取ればいい」

少しの沈黙のあと、詩織は小さく答えた。

「産婦人科」

徹の指が止まる。黒い瞳が、詩織の腹に落ちた。

「……お前」

「妊娠してる」

隠すつもりはなかった。徹は弁護士だ。彼にだけは、秘密は作れない。

徹は何も言わず予約を取り、車を走らせた。けれど堪えきれず、問いが漏れる。

「妊娠してるのに……どうして離婚する」

子どものために耐える女を、徹は何人も見てきた。だが詩織は違う。

詩織の唇は白い。小さな顔は冷えた陶器みたいだった。

「妊娠したからこそ、続けられない。嘘と裏切りだらけの家で育てるくらいなら……最初から父親がいないほうがいい」

自分が苦しくてもいい。ただ、この子に歪んだ幸せを背負わせたくない。

徹は理解した。彼女は産む。けれど離婚する。だから長谷川グループの株15%が必要なのだ。

理屈だけなら、中絶が一番合理的だ。けれど詩織の決意は揺らがない。徹は余計なことは言わなかった。

病院に着くと、徹が番号を取りに行き、詩織は廊下の椅子で休むことになった。腹が波のようにきりきり痛み、額に細かな汗がにじむ。

息を吐き、ふと顔を上げる。

そのとき——見覚えのある二つの影が、視界を横切った。

詩織は一瞬、自分の見間違いだと思った。けれど足が勝手に動く。気づけば、あとを追っていた。

産婦人科には夫婦連れが多い。長谷川遥斗は林田美月の腕を支え、VIP病室へ入れてやっていた。髪を撫で、優しい声で言う。

「先に座ってろ。手配した医者が遅いな……見てくる」

林田美月は花が咲くみたいに笑い、男の袖に指を絡める。

「早く戻ってきて。お腹の子、今日はすごく暴れるの。怖い」

「すぐ戻る」

遥斗が額にキスを落として出ようとした瞬間、美月が彼を引き戻した。

遥斗はため息をつき、困ったように笑う。

「どうした、俺のお姫様」

「遥斗、行っても……戻ってくるよね?」

不安げな声。遥斗は昨日のことを思い出したのか、わざと甘い声で慰めた。

「何言ってる。お前のお腹には俺たちの子がいるんだ。戻らないわけない」

「昨日あんな言い方するから、怖かったんだもん……」

遥斗は椅子に腰を下ろし、美月の腹を撫でる。そこには父親の慈しみが宿っていた。

「昨日のは詩織を騙すためだ。今はまだ離婚できない」

「じゃあ、私と子どもはずっと日の当たらないままなの?」

美月がむくれる。

遥斗の笑みが薄れ、声が冷たくなる。

「美月。そういうのは嫌いだ。言うことを聞け。俺には俺の段取りがある」

美月はすぐに従順な顔を作る。

「ごめんなさい……もう言わない」

遥斗は満足げに立ち上がり、病室を出た。

詩織は、扉の近くでその会話をすべて聞いていた。

遥斗が去ってから、詩織は隣の病室の陰からゆっくり出る。気づけば、涙が勝手に落ちていた。胸が裂けるみたいに痛い。

——笑える。

信じろと繰り返した男が、愛人を連れて検診だなんて。

最初から、堕ろさせるつもりなんてなかったのだ。産ませる気だった。ずっと。

「詩織? 何してる、こんなところで」

背後から徹の声がした。大きすぎもしないのに、病室の中にも届いたらしい。

美月が顔を上げ、詩織の真っ赤な目を見て固まる。次の瞬間、勝ち誇ったように口元を吊り上げた。

「……つけてきたの?」

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