第9章 彼はふさわしくない!
「なに、あれ……? あの女、誰よ」
「長谷川様と、ただならぬ感じじゃない? まさか――」
「ありえないでしょ。長谷川様が詩織さんをあそこまで溺愛してるのに、浮気なんて……」
ざわめきが耳に刺さる。けれど諏訪詩織は表情ひとつ崩さず、落ち着いた手つきで軽く制し、マイクを取った。
「ちょっとした手違いがありましたけど、問題ありません。皆さん、どうぞこのまま楽しんでください」
その淡々とした声音に引っ張られるように、会場の空気も次第に元へ戻っていった。
舞台を降りた瞬間、スマホが震える。長谷川遥斗からのメッセージ。
「詩織、怒るな。楽しんでて。すぐ戻る」
唇の端が、ひやりと歪む。諏訪詩織は迷いなく別の番号へかけた。
「……今、どこ?」
私立探偵の声は事務的だった。
「ずっと尾行してました。グランドホテル、1205号室です」
林田美月が意味深な連絡を寄越した時点で、嫌な予感はしていた。だから私立探偵を雇い、林田美月を張らせた。
――当たりだ。
諏訪詩織は控室へ戻って手早く着替えると、裏口から出てそのままグランドホテルへ向かった。
私立探偵に案内され、監視モニターの前に立つ。
「諏訪さん。ホテル内にカメラは仕掛けてあります。ご希望の映像は確実に押さえられます」
諏訪詩織は小さくうなずき、モニターの中の二人を、氷みたいな目で見据えた。
無警戒なまま部屋へ入り、扉が閉まる。
次の瞬間、長谷川遥斗が乱暴に腕を振り、林田美月をベッドへ放り投げた。とはいえ腹の子を気にしているのか、致命的に乱暴にはしない。その一瞬の「手加減」に、林田美月の目が甘く潤む。
――大丈夫。捨てられない。そう確信した顔。
媚びる言葉を探すように身を起こした、その時。首元のネックレスがぐいっと引きちぎられた。
「……誰がそれ着けて、詩織の前に出ろって言った」
男の顔は陰りきっている。床へ叩きつけられたネックレスが、カツン、と乾いた音を立てた。
林田美月の瞳が一気に赤くなり、うつ伏せのまましゃくり上げる。
「ごめんなさい……私、私……ただ悔しかったの。あなたの子を妊娠してるのに、どうして私だけ、ずっと日陰なの……?」
泣き崩れる女を前にしても、長谷川遥斗の目は冷えたままだった。
「……俺との約束、覚えてるか」
林田美月は唇を噛み、柔らかな指で彼の首に腕を回す。胸に頬を寄せ、甘えるように囁いた。
「覚えてる。私が悪かった……だから怒らないで、ね?」
だが長谷川遥斗は揺れない。怒りは本物だった。
林田美月は歯を食いしばり、次の瞬間、着ていたベルベットのドレスを自分でびり、と裂いた。素肌のまま、震えるように立ち上がる。
長谷川遥斗が眉を寄せる。
「何してる」
林田美月は従順に膝をつき、手を伸ばしてベルトを外しにかかった。声だけが、蜜みたいに甘い。
「……機嫌、直して?」
――その先を、諏訪詩織は見られなかった。
がたん、と立ち上がり、何度も息を吸って、胸の奥からせり上がる吐き気を押し込む。唇を噛みしめ、弱さが零れないように喉を殺した。
「……録り終わったら、データ送って」
掠れた声で私立探偵に告げ、諏訪詩織は足早にホテルを出た。
宴会場へ戻ると、何事もなかった顔で客をもてなした。ひとりで。最後の一人が帰るまで。
結局、長谷川遥斗は戻らなかった。
スマホに届いたのは、冷えきった文字だけ。
「ごめん詩織。会社で急用ができた。今日は戻れない」
――笑える。
諏訪詩織はチャット画面を閉じ、同じ時刻に届いた動画を確認すると、そのまま牧野徹へ転送した。
胸が裂ける痛みのあと、心のどこかがすぽんと抜け落ちたみたいに空っぽで、妙に軽い。牧野徹から返信が来たのを見届けてから、スマホを伏せ、諏訪詩織は別荘へ戻った。
最低限の衣類だけをまとめる。高価なものは持たない。
――けれど、何も取らずに出ていくほどお人好しでもない。
傷つけられて、ただで去る気はなかった。これからの暮らしのために、取るべきものは取る。
荷造りを終えると、長谷川遥斗の書斎へ向かい、離婚協議書を印刷した。
ペンを取ろうとして、机の上の万年筆が目に留まる。結婚して間もない頃、彼の誕生日に、自分の手で作って贈ったものだ。
同じ空間にいるだけで幸福だった。あの甘さは、全部――幻。
諏訪詩織は小さく嗤い、離婚協議書に署名した。
そして万年筆を力いっぱいへし折り、机へ放り投げる。
――長谷川遥斗には、似合わない。
私が心を込めたものを持つ資格なんて、もうない。
協議書を机に置き、踵を返した、その瞬間。
書斎の扉が勢いよく開いた。
長谷川遥斗が息を切らし、戸口に立っていた。戸惑いの色を宿した目で諏訪詩織を見つめ、次いで腕を掴む。
「下のスーツケースは何だ。どこへ行く気だ?」
「あなたには関係ない」
諏訪詩織は会話を拒むように、乱暴に手を振りほどいた。
その拍子に、机上の離婚協議書が風にあおられ、ひらひらと床へ滑り落ちる。
長谷川遥斗の言葉が、喉の奥で止まった。
落ちた紙に目を落とし、ゆっくり諏訪詩織を見上げる。信じられないものを見る目。次の瞬間、手首を握り潰すほど力がこもった。
「……どういうつもりだ」
陰鬱な声に、怒りが混じりだす。
「離婚? 俺と離婚する気か!」
